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5☆s 講師ブログ

スピークイージー(1)

​アメリカにおけるウィスキーの歴史を語る時、絶対に避けて通れないのが「禁酒法」です。
実は、この法律が成立した背景には戦争がありました。

アメリカに、ビール醸造の方法を持ち込んだのはドイツ系移民。
醸造会社の経営者も、ほとんどがドイツ系でした。

ところが、その頃のアメリカ国内には、反ドイツ感情が渦巻いていました。
1917年4月2日に招集された連邦議会で、対ドイツ戦線布告に関する審議が行われ、アメリカは正式に第一次世界大戦の参戦を決めます。

その議会に初めて提出されたのが、禁酒法案でした。
憲法修正18条として正式に決定されるのは、その2年後の1919年1月。

飲用アルコールの醸造、販売、運搬、輸入、輸出の一切を禁止するというこの悪法は、1920年から13年間も続きます。
禁酒法と聞くと、一滴も酒が飲めないイメージがありますが、自宅での飲酒は許されるなど実際はかなり緩い法律でした。

そのため、人々は禁酒法の施行前に大量の酒を買い込んでいました。
でも、ストックした酒もいつかは底をつきます。

それを見越して、シアーズ・ローバック・アンド・カンパニーは家庭用蒸留器の通信販売を開始しました。
なんとも商魂たくましい話ではありますが、明らかに密造ですよね。

実は、法律が施行された後も、当局が本気で取り締まりを行った形跡はありません。
その証拠に、禁酒法が施行されていた13年の間に、酒の消費量は10%も増えています。

酒の提供を担っていたのは、「スピークイージー」と呼ばれる所謂“もぐりの酒場”。
ニューヨーク市のスピークイージーは、禁酒法施行前は1万5千軒ほどでしたが、施行後は3万軒以上に倍増しています。
多くの有名老舗ホテルでも奥まったところには隠し扉があり、そこがスピークイージーへの入り口となっていました。

提供されるウィスキーは、主にカナダから密輸されたもの。

1923年に、弟のハリーとともにディスティラーズ・カンパニー・リミテッド社(DCL)を設立したサム・ブロフマンは、シーグラム社の経営権を取得して20世紀最強のウィスキー帝国を築きましたが、彼らの密輸事業がカナダ当局から違法と見做されたことは一度もありません。
カナダ政府としては、税金さえ払ってもらえばそれでよかったのです。

ハリー・ハッチは、毎晩ウィスキーを船に満載してオンタリオ湖を渡っていたことから、「ハッチの海軍」という異名をとっていました。
冬は五大湖が凍るため、氷の上でトラックを走らせます。

アル・カポネは、もっと効率的な方法を考え出しました。
秘密のトンネルを掘り、ベルトコンベアで酒を運んだのです。
現在、カナダ側の入り口は観光名所のひとつになっています。

バハマのナッソー港で船積みされた密輸ウィスキーを、ニューヨーク沖で瀬取りしていたのはビル・マッコイ。
マッコイ船長が運んでいたのは本物の『カティサーク』だったことから、「リアル・マッコイ」と呼ばれたことは有名ですよね。

酒の密輸や密造に関わる人たちは次第に組織化され、「ギャング」と呼ばれる集団を形成していきます。

シカゴのギャングと言えば、真っ先に思い浮かぶのがアル・カポネ。
ニューヨーク・タイムズは、禁酒法時代を「悪の華が満開だった」と形容しましたが、この言葉はカポネの死亡記事の枕に使われたものです。
カポネと取締官のエリオット・ネスとの、熾烈な戦いを描いた有名な映画『アンタッチャブル』。

でも、ギャングたちがマシンガンで武装していたのは、警察と戦うためではなく、敵のギャングから酒を守るためでした。

警察は全く問題ではありませんでした。
なぜなら、賄賂を渡せばそれでよかったからです。

アル・カポネは、シカゴのど真ん中に位置する老舗のレキシントン・ホテルの5階の部屋をいくつか貸切にして、「カポネの城」と呼ばれる事務所兼住居を構えていました。
もちろん、ホテルの地下には酒を運ぶトンネルが完備。

ここに引っ越す前はメトロポール・ホテルを根城にしていたのですが、そこは警察署や市役所などが集中するエリア。

なぜそんなことができたのでしょう?

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