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5☆s 講師ブログ

ピアノという名のリリシズム(3)

ネネットという若いウェイトレスとの運命的な出会いが、悲劇の始まりでした。
エヴァンスは、それが「誠意」だと思ったのでしょう。
10年間連れ添ったエレインに、正直に心情を打ち明けます。
最初彼女は、冷静に受け止めているように見えたそうです。

しかしその直後、エヴァンスがツアーのためにニューヨークを離れるや否や、エレインは地下鉄に身を投じてしまいます。

その後ネネットと正式な結婚をしますが、その頃には彼の指は倍くらいの太さに膨れ上がり、隣の鍵盤を叩いてしまうこともしばしば。
長年に渡り摂取した麻薬が、肝臓を蝕んでいました。

エヴァンスがピアノを弾く様子は異様なものでした。
鍵盤に額を擦りつけんばかりに、深く項垂れて弾くのです。

その姿勢で、魂から絞り出すかのように紡ぎ出す、壊れやすいガラス細工を絶妙なバランスで組み上げたような、美しくも繊細な珠玉のメロディ・ラインは、まさに「ピアノという名のリリシズム」。
あるいは「リリシズムという名のピアノ」。

しかし、そこには隠しようもないほどはっきりと、甘美な「死」の香りが漂っていました。
それでもエヴァンスは、“その時”が訪れるまで頑として病院に行くことを拒み続けます。
病状が悪化するに従い、まるで「死」に向かって疾走するかのように、演奏スピードはどんどん速くなり、メロディ・ラインはますます透明になっていきます。

1975年に「スイング・ジャーナル」誌が企画したミュージシャンの座談会で、司会の児島紀芳はエヴァンスの発言に驚愕させられることになります。

「私にとって肝心なことは、聴衆の多さを競うことよりも、聴きに来てくれる聴衆の質が問題なのです」
こんな考えのミュージシャンは見たことありません。

また、亡くなる1ヵ月前に行われたインタヴューでは、もっと踏み込んだ発言をしています。
「観客の反応は大事だけれど、それがすべてではありません」
「より良いものを求める人たちは、少ないながらもいる。彼らの存在が芸術を育む揺り籠になるだろう」

だからこそ、エヴァンスは残された時間を治療ではなく、理想とするスタイルの追求に費やしたのです。
彼の視線は、私たちが思うよりも遥かに高いところを見つめていたようです。
もしかしたら、ここが「ミュージシャン」と「アーティスト」の境界線なのかも。

「よい病院で治療を受ければ快方に向かうはずだと言って私は入院を勧めたが、応じなかった。彼には生きる意志がまったくないように思えた」
死の直前、二度にわたって診察したジェームス・ハルト医師の言葉です。

エヴァンスの親友で、作家のジーン・リースはこんな風に評しています。
「彼の死は、歴史上一番時間をかけた自殺だった」

80年9月10日、ニューヨークの「ファット・チューズデイズ」で《マイ・ロマンス》を弾き終えた時、ベースのマーク・ジョンソンは涙が止まりませんでした。

翌日からはステージに立つことも困難になります。

嶋護の著書『ジャズの秘境』に、運命の日の様子が詳しく描かれています。
エヴァンスは、マンハッタンのミッドタウンにある薬物治療クリニックに新規の予約を取って、久々にベッドから出ました。

エヴァンスの愛車、1978年製のシボレー・モンテカルロのステアリングを握るのは、ドラムスのジョー・ラバーベラ。
助手席に乗り込んだのは、妻のネネットや二人の子供と別居中だったエヴァンスが、当時同居していた23歳のガールフレンド、ローリー・ヴァホーミン。

10半頃ニュージャージー州フォート・リーを出発した車は、やがてセントラル・パークに差し掛かります。

その時でした。

エヴァンスが、突然激しく咳き込み大量の血を吐いたのです。
そして、クラクションを鳴らしっぱなしにして、フィフス・アヴェニューにあるマウントサイナイ病院に向かうようラバーベラに告げます。
道順まで指示したところからみて、この時はまだかなり冷静だったようです。

しかし、肺に大量の血が溜まっていたため吐血が止まりません。
エヴァンスの目に怯えの色が浮ぶのを、ローリーは見逃しませんでした。

彼女が耳にしたエヴァンスの最期の言葉は、「溺れ死にそうだ」。

病院の入り口から救急室まで、エヴァンスが通った後の床には鮮やかな血の筋が描かれていました。
待合室で佇むローリーのもとにラバーベラが戻った時、若い医師が現れ二人を小さなオフィスに案内します。
医師は、静かな口調で告げました。

「もはや手遅れです」

1980年9月15日午後3時30分。

「ジャズピアノの詩人」と言われた男は、静かに、そして”ようやく”51年の生涯に幕を降ろします。
直接の死因は肝硬変と気管支肺炎、そして出血性潰瘍。

予定されていた5度目の来日は叶いませんでした。

ところがその数カ月後、悲嘆に暮れる日本のファンのもとに、まるで亡き人から送られてきた手紙のように、一枚のアルバムが届きます。

1977年8月録音の『ユー・マスト・ビリーヴ・イン・スプリング』。
写真家でジャズライターの藤本史昭は、そのライナーノーツにこう記しています。

「死に対して潜在的憧憬を抱き続けた人の、音楽的遺言である」

この音楽的遺言には、自死した二人の肉親それぞれに捧げた曲が収録されていました。
内妻エレインへの《Bマイナー・ワルツ》と、2歳年上の兄ハリー・ジュニアへの《ウィ・ウィル・ミート・アゲイン》。

エヴァンスは、子どもの頃いじめっ子に飛びかかって殴り倒してくれた兄のために、密かに曲を作っていました。
しかし、完成した曲を聴く前に、ハリーは銃の引き金に手を掛けてしまいます。
ちなみに、ハリーの娘の名はデビイ。

そう、あの名曲≪ワルツ・フォー・デビイ≫は、彼女のために作られた曲なのです。
でも不可解なのは、このアルバムには、他にも曰くつきの曲が収められていたことです。

 

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