株式会社ファイブスターズ アカデミー
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「ミスター・バッジ、20ドル貸してくれませんか?」
1938年に史上初のグランドスラムを達成した伝説のテニスプレーヤーで、熱烈なジャズファンでもあるドン・バッジが、「ヴィレッジ・ヴァンガード」でビル・エヴァンスに挨拶した時に返ってきた言葉です。
それがヘロインを買うための金であることは、ドンにもわかっていました。
「これで足りるかい?」と20ドルを渡しながら、心の中で思います。
「なんてことだ。悲しすぎる。ビルが弾く、あの、世にも美しい≪ア・チャイルド・イズ・ボーン≫がドラッグから生まれただって?」
黒ブチの眼鏡をかけ髪をキッチリ七三に分けた、一見エリート銀行マンのような風貌のジャズ・ピアニストが、実は筋金入りのジャンキーだったとは。
ヘロインの打ち過ぎで右腕が麻痺してしまい、左手だけでクラブに一週間出続けたこともあります。
アルバムのジャケットに使われるポートレート写真が、すべて引き締まった表情だったのは、笑うとボロボロの歯が見えてしまうからでした。
なぜ、エヴァンスはこんなにも深く麻薬に溺れてしまったのでしょう?
リヴァーサイド・レコードのオリン・キープニュースが、ビル・エヴァンスというピアニストの存在を知ったのは1956年の始め頃。
ギタリストのマンデル・ロウが架かけてきた電話で、ロウの自宅で録音されたというデモ・テープを聴かされたのがきっかけです。
ロウがエヴァンスと知り合ったのは、その電話から遡ること6年前。
離婚手続のため、妻の出身地のルイジアナを訪れていたロウは、当時サウスイースタン・ルイジアナ・カレッジの大学生だったエヴァンスの噂を聞きつけ、早速演奏を聴きに赴きます。
その時からこの電話まで随分ブランクがあるのは、エヴァンスが3年間兵役に就いていたからです。
詳しいことは語られていませんが、この兵役期間がエヴァンスの人生に暗い影を落としていることは間違いありません。
ちなみに、オリン・キープニュースにも従軍経験があります。
空軍に徴兵され、東京空襲にも参加したことがあるそうです。
かつて自分が爆弾を落とした国の人たちが、リヴァーサイドのレコードをたくさん買ってくれることに複雑な気持ちを抱いていると、小川隆夫のインタヴューに答えています。
でも、それはお互い様。
ジャズ評論家の油井正一だって、東京に飛来する爆撃機を高射砲で迎え撃つ任務に就いていたのですから。
もし、自分が撃ち落とした飛行機の中に、ベニー・グッドマン(クラリネット)が乗っていたらどうしよう。
油井は、毎日銃座の前でそんなことを考えていました。
さて、電話越しにエヴァンスを聴いたキープニュースですが、その演奏に惚れ込み早速ライヴに足を運びレコーディングの交渉を始めます。
そして、その年の9月には、初リーダー・アルバム『ニュー・ジャズ・コンセプションズ』の録音を済ませてしまうのでした。
改めてこのアルバムを聴くと、後の名作に比べてアグレッシブな面が強く出ていることに驚かさせます。
端正なニヒリズムの隙間から時折顔を覗かせる、迸る情熱の奔流の原点はここにありました。
しかし、残念ながら時代が追いついてきません。
初年度の売上はわずか800枚。
その後2年に渡り、リーダー・アルバムが吹き込まれなかったのはこのせいです。
それでも、見る人は見ていました。
中山康樹著『ビル・エヴァンスについてのいくつかの事柄』の中に、作編曲家ジョージ・ラッセルの回想が載っています。
ラッセルは、レッド・ガーランドの後釜を探していたマイルスに、エヴァンスを紹介します。
「そいつは白人か?」
「ああ」
「メガネをかけてるか?」
「ああ」
「そいつなら知ってるぜ。クラブで聴いたことがある。かなり“弾ける”奴だな。木曜の夜にブルックリンのクラブに連れてきてくれ」
58年春、エヴァンスは目出度くマイルスのセクステットに抜擢されます。
しかし、問題もありました。
コルトレーン(テナー・サックス)との音楽性の違いを人々は懸念したのです。
両者の間では、時に口論が交わされたといいます。
でも、エヴァンスにはそれ以上に、マイルスのグループに集中できない理由がありました。
3人が対等なインター・プレイを展開するピアノトリオに、興味の対象が移ってしまっていたのです。
エヴァンスはわずか半年で独立します。
しかし、困ったことにトリオのメンバーが決まりません。
「ベイジン・ストリート」に出演していた3週間のうちに、メンバーは目まぐるしく入れ替わり、ようやく4人目のドラマーとしてポール・モチアン、そして7人目のベーシストとしてスコット・ラファロが決まります。
それほどまでに揉めた理由は、そもそもピアノトリオがカネにならないからです。
当時、ジャズクラブに集まる客の目当ては、あくまでトランペットやサックスといった花形の管楽器を擁するコンボ。
彼らが休憩をとる幕間に客が軽い食事をとったり、あるいはおしゃべりしたりする時のBGMがピアノトリオだったのです。
だから、トリオ結成後も、エヴァンスはトリオ以外の仕事で糊口を凌がなければなりませんでした。
でも、このスコット・ラファロという若き天才ベーシストとの出会いが、予期せぬ化学反応をもたらしました。
ラファロに関する、MJQのパーシー・ヒース(ベース)の証言があります。
ある日ホテルの廊下を歩いていると、ものすごいテクニックでベースを練習する音が聞こえてくるではありませんか。
すぐに部屋のドアを叩き、急いで自己紹介を済ませるとこう尋ねます。
「そんなに弾けるのに、どうしてギタリストにならなかったんだい?」
また、こんな目撃談もあります。
「ブラックホーク」で彼がベースソロを弾いていた時、店のレジ横にある電話が鳴り出しました。
すると、すかさずその電話の呼び出し音と、掛け合いのインター・プレイをやってのけたというのです。
そして、迎えた1961年6月25日の日曜日。
エヴァンスの運命は、大きな転機を迎えることになります。
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