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5☆s 講師ブログ

報道の脳死(4)

東日本大震災の時、被災者に配慮したマスメディアの姿勢を知った烏賀陽は大混乱に陥りました。
なぜなら、自身の理想とする記者像とは、あまりにもかけ離れたものだったからです。

取材者の多くが、「いかにして被災者の感情を傷つけないか苦心した」と回想していることに対しても、彼は強烈な反対意見を突きつけます。
「罵声を浴びようと、傷つけようと、悪者になろうと、記録すべきは記録する」べきであると。

さらには、「職責のために憎まれ役を引き受ける覚悟が必要だ」とまで主張し、挙げ句の果ては3・11のように現場の面積が広い事件は、記者にとっては「宝の山」であるとまで言うのです。

そこにはスクープをモノにしたい野心はあっても、被災者への配慮など微塵も感じられません。
これが、特ダネ記者が標榜する「ジャーナリズム」だとしたら、あまりに「さもしい根性」のように感じるのは私だけでしょうか。

もし、本気で「職責のために憎まれ役を引き受ける」覚悟があるなら、なぜ芸能事務所社長の性加害問題については報道しなかったのでしょう?
もしかしたら、烏賀陽の言う“記者魂”とは、相手が被災者などの「弱者」の時に限って発動されるものなのかもしれません。

でも、それ以上に私が不条理だと思うのは、書かれた側は世間に晒されるのに、記事を書いた側は匿名性が守られることです。
もし、記者の側も名前と顔を世間に晒さなければならないルールだったとしたら、それでも憎まれ役を買って出る覚悟はあったでしょうか。
ネットの総攻撃を、真正面から受け止める覚悟はあったでしょうか。

私には、この“記者魂”の背後には「記者は何をしても許される」という、マスメディア特有の「特権意識」が潜んでいるように思えてなりません。
でも、その「特権意識」も最近は結構希薄になっているようです。

烏賀陽の『報道の脳死』は2012年に出版されたものですが、2024年元日に発生した能登半島地震の時は、烏賀陽の言う“記者魂”を発揮した者はほとんどいませんでした。
代わりに、露骨にスクープをモノにしたいというスタンスで取材していたのは、一部のユーチューバーたち。
つまり、「罵声を浴びようと、傷つけようと、悪者になろうと」、「憎まれ役を引き受ける覚悟」でカメラを回していたのは、記者ではなく「迷惑系ユーチューバー」だったのです。
なんと、烏賀陽の言う“記者魂”は、迷惑系ユーチューバーたちに脈々と受け継がれていました。
特ダネのためなら人を傷つけてもいいという烏賀陽の「美学」は、結局のところ再生回数を稼ぎたいという「炎上商法」と大差ないものでした。

ところで、外国はどうなのでしょう?
日本と違いはあるのでしょうか?

アメリカでは2000年前後にインターネットが普及したことで、ブログをアップロードする人が急増しました。
つまり、それまでは記者だけに許されていた「意見の表明」という特権が、一般人にも解放されてしまったのです。

烏賀陽は、このことによって、新聞やテレビなどのマスメディアに対する市民の考え方が大きく変わったと分析しています。
どう変わったかというと、新聞やテレビは「権力と癒着している」とか、「隠蔽的、閉鎖的である」といった批判が市民の間に渦巻いたというのです。
日本では、それから20年後に起こった芸能事務所社長の性加害問題によって、ようやく市民がその事実に気づくことができました。
この事件により、記者の主張する「ジャーナリズム」なるものが、全くのご都合主義であることが白日の下に晒されたのです。

「ジャーナリズム」とは一体何なのでしょう。
ジャーナリズムの定義を、メディア内でメシを食っている自称「ジャーナリスト」たちに任せるのは極めて危険です。
そうではなく、私たち市民の側が考えるべきです。

かつてニューヨーク・タイムズ紙のワシントン支局長を務め、『ジャーナリズムの原則』を上梓したビル・コヴァッチは、「ジャーナリスト」をこんな風に定義しています。

「市民を権力から自由に保つための情報を運ぶ者」    

ここで言う「権力」とは、もちろん政治家だけではありません。
当然、官僚や芸能事務所も含まれます。

つまり、ジャーナリストとはその職業が何かとか、所属するメディアが何かなどとは関係なく、「権力から市民を守る人」のことを言うのです。

キーワードは「市民」です。
コヴァッチは10ヵ条からなる「ジャーナリズムの原則」を提唱していますが、その第2条には「ジャーナリズムが忠誠を誓うべきは市民の自由である」と書かれています。

改めて、この原則に照らし合わせてみると、日本の記者が主張する「権力の監視」には、「市民の自由」という視点が決定的に欠けていることがわかります。

どちらかというと、「スクープ」をものにしたいから監視しているように見えます。
芸能事務所の少年たちも「市民」です。
その市民を守れなかったマスメディアに、「権力の監視」を口にする資格はないでしょう。

ところが、この「監視」ということに関して、最近奇妙な逆転現象が起こっています。

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