株式会社ファイブスターズ アカデミー
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どこの会社でも、高品質の製品やサービスの実現を追い求めています。
でも、なかなか決め手が見つかりません。
高品質の製品やサービスの実現は、どうしたらできるのでしょう?
明治初期の日本は富国強兵を目指し、生糸の輸出で外貨を獲得しようとしていました。
しかし、当時の日本の生糸はとにかく品質が悪く、欧州での評判は最悪。
どうすれば、光沢のある良質の生糸が作れるのか?
悩み抜いた波多野鶴吉が辿り着いた結論は驚くべきものでした。
「心が清ければ光沢の良い糸ができる」
なんと、心の清らかな従業員が高品質の商品を作る、つまり従業員教育が決め手だというのです。
以来、「善い人が良い糸をつくる」という思想がこの会社の基礎になります。
工場内に建設された従業員向け寄宿舎には、数多くの教室が併設されました。
世間の人が「表から見れば工場、裏から見れば学校」と噂するほど。
ルポライターの細井和喜蔵が、紡績工場の過酷な労働環境を告発した『女工哀史』を発表したのは1925年(大正14年)。
この会社の場合、それよりずっと前の明治の中頃に、すでに従業員教育に取り組んでいたのです。
それは従業員の呼び方にも表れています。
「女工」はいつしか「工女さん」に変わり、昭和に入ると「業生」という呼称に改められました。
学ぶだけの人は「学生」。
「業生」とは働きつつ学ぶ人という意味です。
従業員教育の充実を謳う会社は現代でも多くありますが、ここまで徹底した例は聞いたことがありません。
京都府北部の寒村・現在の綾部市にあたる何鹿(いかるが)郡で、1886年(明治19年)に操業を開始したこの会社の名前は「郡是製絲株式会社」。
現在の「グンゼ株式会社」です。
国の方針を「国是」というように、郡の方針を「郡是」といいます。
当時、遊説で綾部を訪れた日本実業会会頭の前田正名が、この地方における「郡是」は養蚕業の振興であると指摘したことが社名の由来です。
鶴吉の従業員教育は見事に実を結び、創業から14年後の1900年にはパリ万博で金牌を受賞。
その翌年から、アメリカ向けの高品質の生糸の輸出が開始されます。
日本が、工業製品の貿易立国となった始まりはグンゼだったのです。
グンゼは波多野鶴吉を創立者としていますが、実を言うと彼は初代社長でもなければオーナーでもありません。
初代社長は鶴吉の実兄の羽室嘉右衛門。
二代目が波多野家の養子となっていた鶴吉です。
二人のマネジメントに対する考え方の違いがよくわかるエピソードが残されています。
事務所を新築した際、兄の嘉右衛門は庭に巡らせる塀の板を疎らに張るよう指示します。
従業員が、社長の目を盗んで怠けないように監視するためです。
ところが鶴吉は、この考えに真っ向から反発します。
激しい口論の末、結局板はぴったりと隙間なく張られることになりました。
従業員を全面的に信頼する鶴吉に従業員たちも応えました。
後に貞明皇后がグンゼに行啓するのですが、皇后の視察中も従業員たちは一心不乱に作業に集中し、よそ見をする者は一人もいなかったといいます。
信頼は、監視よりもずっと効果があるのですね。
創業当初のグンゼ株は一株20円でしたが、株主のほとんどは一株か二株しか持たない貧しい地元の養蚕家。
鶴吉は、毎月一円ずつ月賦の集金に歩いて回りました。
しかも、工場で働く従業員のほとんどは彼らの娘たち。
グンゼはまさに地域との運命共同体だったのです。
贅沢とは無縁の鶴吉は、工場内の長屋に住みモンペ姿で毎日竹箒で通路や庭を掃除します。
そして、後には夫人が手桶で水を撒きながら続きます。
質素極まりない健全経営でしたが、それでも世の中の変化は容赦なくグンゼを襲いました。
日露戦争の最中に、取引銀行の百三十銀行が破綻するという危機に見舞われたのです。
政府の要請を受けた安田銀行が、グンゼの整理に乗り出すことになりました。
一代にして安田財閥を築き上げた総帥・安田善次郎が、会社の状況を自分の目で確かめようと、直々にグンゼを訪問することになります。
グンゼの存続はまさに風前の灯火。
安田は、事務室の前で粗末な木綿の着物を着て草むしりをしている男に取り次ぎを求めます。
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