株式会社ファイブスターズ アカデミー
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スーパードライが出現する以前のビール市場には、「絶対王者」のキリンが君臨していました。
72年から85年までの販売ベースシェアはすでに6割を超え、独占禁止法に抵触する寸前。
主力はもちろん『ラガー』です。
でも、昔からキリンの王国だったわけではありません。
終戦後GHQによって大日本ビールがアサヒとサッポロに解体された時、キリンは弱小メーカーのひとつに過ぎませんでした。
当時、ビールは冷蔵庫のある飲食店でしか飲めない高級品でしたが、キリンは業務用の販売ルートには極端に弱かったのです。
ところが、家庭用冷蔵庫が普及し始めたことでチャンスが巡ってきます。
一般家庭への瓶ビールの配達を担っていたのは酒販店。
キリンは、この直販ルートに目をつけました。
『ラガー』が圧倒的なシェアを獲得できた理由は、味が好まれたというよりも酒販店の囲い込みに成功したからです。
しかし、過度な勝利は『ラガー』の品薄状態をもたらしてしまいます。
卸店が一箱でも多く回して欲しいと懇願する頃には、営業マンの仕事は商品の売り込みではなく、納品数の調整がメインとなっていました。
一方その頃、流通業界には大きな変化の波が押し寄せていました。
あちこちに大手スーパーマーケットが出店し、酒販店の既得権だった酒販免許は徐々に自由化されていきます。
瓶ビールに代わって缶ビールがスーパーの棚に並ぶ頃には、酒販店が酒を配達する光景は消え失せていたのでした。
ところが、キリンは『ラガー』の成功に胡座をかいていました。
時代の変化を見誤ったのです。
そこに、青天の霹靂の如く出現したのが『スーパードライ』でした。
キリン、サッポロ、サントリーの各社は、翌88年に慌てて『ドライビール』の発売に踏み切ります。
世に言う「ドライ戦争」の始まりです。
中でも『キリンドライ』は大当り。
年末までに3,964万箱という驚異的な数字を叩き出します。
これは、その前年の『スーパードライ』の新記録を大幅に上回るどころか、その3倍に当たる数字。
これこそガリバー企業が取るべき正しい戦略です。
無謀とも思える下位企業の冒険はじっと傍観しておいて、その戦略が成功したのを見定めてから押っ取り刀で類似商品を発売する。
そして、最終的には力ずくで新市場を奪い取ってしまう。
一見、キリン帝国の安泰は揺るぎないように見えました。
しかし、ガリバー戦略のお手本とも思えた『キリンドライ』の成功には、意外な落とし穴があったのです。
『キリンドライ』の大成功にもかかわらず、この年のキリン全体の販売量はなんと前年比▲4.2%。
シェアは6.1%もダウンしてしまいます。
要するに、『キリンドライ』は主力の『ラガー』のシェアを食っていただけだったのです。
キリンは窮地に追い込まれます。
その時、ひとりの救世主が現れました。
73年入社の前田仁。
後に『一番絞り』や『ハートランド』、さらには『淡麗』、『氷結』、『のどごし〈生〉』といった数々のヒット商品を世に送り出した伝説のマーケターです。
でも、彼のサラリーマン人生は、決して恵まれたものではありませんでした。
キリンは日本有数の名門会社。
それ故、いつの間にか出世レースの先頭グループは、超有名大学の出身者だけで構成されるようになっていました。
前田は関西の私大の出身。
最初からハンデを背負っていたわけです。
しかも、結婚半年後には胃ガンが見つかります。
ショックを受けた身重の妻は流産してしまいました。
とりあえずガンの手術は成功したのですが、術後の経過が思わしくなく、3週間の入院予定は3カ月に延びてしまいます。
退院した時、前田は31歳になっていました。
おそらくこの頃に、前田は出世レースに見切りをつけたのではないでしょうか。
でも、前田には出世以外に「やりたいこと」がありました。
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