株式会社ファイブスターズ アカデミー
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帰ろうかと真剣に悩んでいました。
サラリーマンだった頃の、ある会議の最中でのことです。
「自分が正当に評価されていない」という不満が、突然フツフツと沸いてきました。
そして、過去の理不尽な出来事が次々と脳裏を駆け巡り、私の周りで渦を巻き始めます。
会議終了後には軽いパーティーが予定されていたのですが、無断で帰ってしまおうかと本気で考えていました。
怒りで熱くなった頭には、結構魅力的な提案に思えたのです。
貸会議室だったため、会場設営の都合とかでパーティー開始まで少し時間がありました。
迷いながらもエレベーターに乗ります。
1階に降りるとCDショップがありました。
このまま帰ってしまっていいものかという後ろめたさも手伝って、とりあえず店に入ってみます。
すると、ブルーノートの広告が目に飛び込んできました。
デューク・ジョータンの『フライト・トゥ・ジョーダン』。
懐かしいアルバムです。
学生時代、薄暗い四畳半のアパートで、来る日も来る日もジャズのレコードを聴いていました。
デューク・ジョーダン、本名アーヴィング・ジョーダンは1922年のエイプリル・フールにニューヨークに生まれます。
両親は西インド諸島からの移民。
40年代に盛況を極めた52丁目のクラブでコールマン・ホーキンス(テナー・サックス)らとともピアノの腕を磨いていた頃、チャーリー・パーカーの目に止まります。
マイルスやマックス・ローチ(ドラムス)らと共にダイアルやサヴォイといったレーベルに歴史的なアルバムを残しましたが、リーダーアルバムの話が持ち上がったのはかなり遅くて54年のこと。
これほどの才能に誰も気がつかなかったとは、不思議としか言いようがありません。
しかも、声を掛けてきたのはフランスのヴォーグ社からレコード製作のために派遣されていたピアニストのアンリ・ルノー。
後に彼の代表作となる『ジョードゥ』も収録されていることから、ジョーダンの張り切りようが窺えます。
その後、ケニー・バレル(ギター)のセッションに参加したことがきっかけで、ブルーノートからリーダーアルバムをリリースするチャンスに恵まれます。
この時、全力で世に問うたのがこの『フライト・トゥ・ジョーダン』。
英語の綴りが同じ、「ジョーダン」と「ヨルダン」をひっかけたダジャレです。
テナー・サックスには、名手スタンリー・タレンタインを起用するほどの入れ込みよう。
ところが、期待に反して世間の反応は全くありません。
それでも、そのままブルーノートの専属を続けていれば日の目を見る機会も巡って来たでしょうが、パーカーの未亡人ドリスが経営するチャーリー・パーカー・レコードに肩入れしたため、2年の歳月を棒に振ってしまいます。
ジャズの仕事に嫌気が差した理由は他にもありました。
ジャンヌ・モロー主演のフランス映画、『危険な関係』のサントラにジョーダンの曲『ノー・プロブレム』が使われたのですが、なぜかスクリーンに映し出された音楽担当の名前はセロニアス・モンク(ピアノ)や、アート・ブレイキー&ジャズ・メッセンジャーズ。
ジョーダンの名前はどこにも出てきません。
しかも、パーティーのシーンに登場するミュージシャンは間違いなくジョーダンなのに、流れてくる音楽はジャズ・メッセンジャーズのものと差し替えられていました。
極め付きは、曲名が『ノー・プロブレム』ではなく、『危険な関係のブルース』となっていたこと。
この名曲に2つの題名がある理由はこれでした。
さらに悪いことに、ヒットしたのは『危険な関係のブルース』の方。
名声を得たのはアート・ブレイキー(ドラムス)でした。
ジョーダンによれば、この映画のために書いた曲は全てJ・マルレエなる人物の作品とされてしまい、自分はビタ一文も報酬をもらっていないとのこと。
まるで、不運を絵に描いたようなミュージシャンではありませんか。
60年代後半のアメリカは、ヴェトナム戦争の影響で厭世観が広まり、次第にフリー・ジャズが勢いを増していきます。
それに伴い、ストレート・アヘッド系のジャズ・ミュージシャンは次第に演奏の機会を失っていきます。
ジョーダンも仕事がなく引退同然の身となり、タクシー運転手やデパートの配送係などのアルバイトで糊口を凌ぐ日々。
その頃ニューヨークでタクシーを利用した、ジャズ評論家の油井正一の興味深いエピソードが残されています。
なんと油井の乗ったタクシーの運転手も、デーヴ・ロームというジャズ・ピアニスト。
しかも、彼が言うにはジョーダンだけでなく、ドラマーのピート・ラロカもタクシーをやっているとのこと。
ただし、ラロカの場合はこれを機に弁護士への転身に成功しています。
人気ヴィブラフォン奏者のボビー・ハッチャーソンも例外ではありません。
コルトレーンのグループを離れた後、一時期仕事に恵まれなかったマッコイ・タイナー(ピアノ)も、タクシー運転手になることを真剣に考えていました。
しかし、愛妻のアイシャが断固反対し、生活費を切り詰めてでもミュージシャンを続けるべきだと説得したおかげでハンドルを握ることはありませんでした。
誤解のないように申し添えますが、タクシー運転手という職業を低く見ているわけではありません。
アルバイトをせざるを得ないほど、当時のジャズ・ミュージシャンたちは生活に困窮していたと言いたいのです。
アメリカは、日本やヨーロッパに比べると、ジャズ・ミュージシャンへのリスペクトが足りないように思います。
油井は、アメリカのジャズ・ジャーナリズムがヨーロッパの後塵を拝しているのは、黒人に対する差別意識があるからだと分析しています。
確かに、ヨーロッパで高く評価されたことがきっかけとなり、「ジャズの巨人」と呼ばれるようになったミュージシャンは大勢います。
実は、デューク・ジョーダンもそのひとり。
1973年、11年ぶりにデンマークのスティープルチェイスからリリースしたのが『フライト・トゥ・デンマーク』。
アルバム名から、ブルーノート版へのジョーダンの未練が伝わってきます。
このアルバムがきっかけとなり、アメリカでもブルーノート版が再発掘され、やっとのことでジョーダンに注目が集まります。
スティープルチェイスのオーナー兼プロデューサーであるニルス・ウィンターの方針は、同じタイプのミュージシャンを起用しないこと。
彼は、ジューダンの朴訥とした演奏スタイルを、他の誰とも違う「個性」として捉え大切に扱いました。
朴訥さも、貫き通せば強みになるのですね。
今や、ジャズファンなら知らない者のいないデューク・ジョーダンですが、彼にも長い長い「冬の時代」があったのです。
それに比べて、今の私はどうなのか。
評価されないといっても、ジョーダンほど困窮しているわけではありません。
たとえ今は評価されなくとも、地道な努力を積み重ねていけばいつかきっとわかってくれる人が現れるはず。
愚痴や不満を言っている暇があったら、もっと自分を磨くことに集中するべきではないのか。
CDの会計を済ませた私は、踵を返してパーティー会場へと急いだのでした。
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