株式会社ファイブスターズ アカデミー
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ニューオリンズの娼館の1階には、必ず酒場がありました。
そこで演奏されていた音楽が、ジャズの始まりと言われています。
演奏していたのは、アフリカから連れてこられた黒人奴隷の子孫たち。
娼館は“Jass House”と呼ばれていましたが、この“Jass”が“Jazz”の語源ではないかという説があります。
娼館のオーナーは、もちろんカタギの人ではありません。
ジャズは、誕生の頃からギャングと関わりがあったわけです。
しかし、1920年代初頭に歓楽街が閉鎖されてしまうと、ミュージシャンたちは演奏の場を求めてシカゴなどに流れていきました。
やがて白人も演奏に加わるようになると、その音楽は「ディキシーランド・ジャズ」という名前で人々の注目を集めます。
そして、30年代後半から40年代にかけて、「ニューオリンズ・リバイバル」として大復活を遂げました。
今、私たちが聴くことのできる「ニューオリンズ・ジャズ」は、全てこのリバイバルの頃に吹き込まれたものです。
でも、1938年にルイ・アームストロングが初めて『聖者の行進』をレコーディングした時には、黒人牧師たちから酷い攻撃を受けたといいます。
聖職者にとっては、ジャズなどといういかがわしい音楽が、神聖な宗教歌を演奏することは耐えられない苦痛だったのです。
いかがわしい館で始まった、いかがわしい音楽。
それがジャズでした。
今回は、そのいかがわしいジャズとギャングとの関係について、ドラマーの視点からスポットを当ててみることにします。
ジャズの巨人アート・ブレイキーが語る、ドラマーに転向したきっかけは実に物騒なものです。
若い頃のブレイキーはナイト・クラブでピアノを弾いていましたが、ある日バンドのドラマーが病気で休みます。
すると、ギャングあがりの経営者がブレイキーの頭に拳銃を突きつけ、「お前がドラムを叩け」と脅したというのです。
しかし、ビル・クロウの『ジャズ・アネクドーツ』によると、これはブレイキー本人によりかなり“盛られた”話のようです。
確かに経営者は大きなマグナム拳銃を持っていましたが、頭に突きつけたりはしていません。
そもそもブレイキーは譜面が読めず、キーもB♭、A♭、E♭の3つしか知りませんでした。
それでも持ち前の度胸と愛嬌で何とかごまかしていましたが、ある時ちゃんとしたリハーサルをやろうという話になり、譜面を読めないことがバレてしまいます。
その時たまたま店にいたエロール・ガーナーが、飛び入りのくせにスラスラとピアノを弾いてみせたため、選手交代となったというのが真相のようです。
ちなみに、ガーナーも譜面は読めませんでしたが、一度耳で聴いたら何でもそのまま弾けるという特技の持ち主でした。
いずれにせよ、ブレイキーはドラマーとして大成功したわけですから、転向は大正解だったわけです。
チャールズ・モフェットは、フリー・ジャズの先駆者オーネット・コールマン(アルト・サックス)の代表作である、『ゴールデン・サークルのオーネット・コールマン』にも参加していたドラマー。
オーネットと同じテキサス州フォートワースの出身で、共に少年の頃から地元のナイト・クラブに出演する仲でした。
ただし、当時はドラムではなくトランペットを吹いていました。
驚くべきことに、彼らは週給100ドルというとんでもない高給を取っていました。
しかし、それはミュージシャンとして優れていたからではありません。
当時のフォートワースは大変な好景気で、石油成金、家畜成金、織物成金がウヨウヨいました。
実はナイト・クラブは成金たちの博打の巣窟で、ミュージシャンは音楽を聴かせるためではなく、頻繁に起こる客同士の喧嘩騒ぎをカモフラージュするために雇われていたのです。
それでも、テキサス巡邏隊に踏み込まれると客が一斉に立ち上がってダンスを始めるため、逮捕者は一人も出なかったといいます。
ウソみたいな話ですよね。
ジャズのサウンドが、犯罪を覆い隠すのに使われていたというわけです。
以下は、モフェットと共にステージに立っていたオーネット・コールマンが、油井正一の『ジャズの歴史物語』に語った回想。
「その晩はこのクラブでさえ荒れに荒れた一夜だった。私の目の前で2人の男が刺し殺され、別の1人が射殺されたのだ。私の音楽が暴行と犯罪をカヴァーしているのだと思うと泣けてきた。もうこんな店に出るのはやめようと何度思ったか知れない。
だが100ドルは魅力だったし、母と妹の生活を支えているのだと思うと、それはできなかった。鉄道線路に沿った貧民の出でなければ、こうした気持ちは理解してもらえないかもしれない」
喧嘩や騒動の中でも、ジャズを演奏し続けた話は日本にもありました。
1952年に疾風の如く来日し、一瞬にして日本にジャズブームを巻き起こしたスウィング時代の花形ドラマー、ジーン・クルーパ。
1938年1月16日、クラシックの殿堂であるニューヨークのカーネギー・ホールに、初めてジャズ・バンドが入りました。
永遠の名盤、ベニー・グッドマン・オーケストラの『シング・シング・シング』。
幕開けを飾るジーン・クルーパの大砲のようなベース・ドラムの爆音が、一瞬にして聴衆を席巻します。
パンチの効いた、クルーパのフィル・インが入る度に会場は大盛り上がり。
仕舞いには床を叩いて熱狂する始末。
クラシックのコンサートでは絶対にありえない光景です。
たった一本のマイクで録音されたというのに、今でもその感動が伝わってくる辺り、間違いなく歴史に名を残すドラマーです。
思えば、クラシックとジャズの大きな違いは、ドラムという楽器があるかどうかです。
そういう意味では、ビートとリズムこそがジャズの生命線と言っても過言ではないでしょう。
そのクルーパと同じイニシャルの「G.K.」をドラム・セットに掲げていたジョージ・川口(本名・川口譲二)は、53年に松本英彦(テナー・サックス)、中村八大(ピアノ)、小野満(ベース)らと共に伝説のバンド「ビッグ・フォー」を結成します。
当時、敗戦でうちひしがれた若者たちが鬱憤を吹き飛ばせる場所は、ジャズ・コンサートしかありませんでした。
コンサートを開催すれば、どこもかしこも超満員。
4人は、たちまちのうちに「日劇」や「浅草国際劇場」を掛け持ちする超売れっ子になります。
サラリーマンの初任給が千円ちょっとの時代、ジョージの月給は10万円だったといいますが、忙しすぎてお金を遣う暇がなく、ただただ楽屋でポーカーに明け暮れる日々。
困ったことに、溜まる一方の札束に目が眩み金を持逃げするマネージャーが後を絶ちません。
そこで4人で話し合った結果、ジョージが代表として取り仕切ることになります。
ジョージが拘ったのはギャラのキャッシュ払い。
それは特に問題なかったのですが、この頃の興行師のほとんどは暴力団関係者だったため、ジャズ・コンサートにはトラブルがつきものでした。
油井正一著、行方均編『ジャズ昭和史』には驚愕のエピソードが綴られています。
ある日、九州のヤクザ興行師の若い組員が、蒲団用に作られた巨大な唐草模様の風呂敷包みを抱えて楽屋を訪れます。
ポーカーの合間に話を聞いていたジョージが「1日100万円以外はやらねーぞ」と怒鳴ると、「はい、この通りですーっ。前金でどうぞーっ」と言って、風呂敷包みの中身をぶちまけました。
中身は大量の100円札の束。
依頼は九州から四国にかけてのツアーでしたが、もちろん二つ返事でOK。
しかし、このツアーは地獄でした。
なんと朝昼晩の1日3回公演。
満員の会場は冷房が利かず、ドラム・セットの周りに氷柱と扇風機をグルリと配置して暑さを凌ぐ有り様。
でも、暑さ以上に厄介だったのが敵対するヤクザの殴り込みでした。
ついに、九州の飯塚で事件は起きます。
他の組の若い衆が、日本刀とナギナタを振りかざして会場に乱入してきたのです。
興行主側の組員が切りつけられ、血だらけになって逃げ回りますが、ジョージは構わずドラムを叩き続けました。
「演奏やめないわけ?」
驚く油井に、ジョージは事も無げにサラリと言ってのけます。
「やめないですよ。もう、満州で毎日人が死ぬの見てますから。ひとりやふたり首をはねられたってびっくりしませんから」
まさに、「鋼のメンタル」とはこのことでしょう。
ところが、四国の松山では本当に殺人事件が起こってしまいます。
山口組系の旧勢力の親分が折半で興行をやろうと提案してきたのに、新興勢力の親分はそれを振り切って単独でコンサートを開催してしまいます。
5千人ほど入るスポーツセンターは、押すな押すなの満員大盛況。
喜んだ親分は、ステージがハネたら200万円注ぎ込んで道後温泉の芸者を総上げし、ドンチャン騒ぎをやろうと持ちかけます。
しかし、残念ながら宴会は実現しませんでした。
ジョージがドラムソロをやっている時のこと、ステージ脇でドーンという音がします。
なんと、旧勢力側の若い衆が親分をピストルで撃ってしまったのです。
ただこれには、殺されたのは新興勢力の親分ではなく、騒ぎを起こそうと会場に潜んでいた若い衆の方だという説もあります。
ジョージもアート・ブレイキーと同様に話を“盛る”癖があり、周りからは「ホラ吹きジョージ」と呼ばれていたので、どこまで本当なのかよくわかりません。
ただ、この時も演奏を止めなかったというのは本当です。
当然、翌日の新聞は大騒ぎ。
人々は「ジョージ川口の行くところ殺しあり」と噂しましたが、これに目を付けたのが映画会社の日活。
なんとジョージに映画出演の依頼が舞い込むのですが、「オレは演奏家だ!」とこれを一蹴してしまいます。
しばらくすると、ひとりの若手俳優がジョージを訪ねてきました。
若者は「ドラムを教えてください」と懇願しますが、ジョージは「その辺で座って見てろ」と連れない返事。
言われるままにドラム・セットの後ろに座って、ジョージの演奏をじっと見つめていた若者こそ、誰あろう石原裕次郎です。
そう言えば、57年に封切られた映画『嵐を呼ぶ男』の主題歌は、裕次郎のこんな歌詞で始まります。
「♪おいらはドラマー、やくざなドラマー」
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