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5☆s 講師ブログ

スコッチ・アイリッシュ(1)

アメリカのウィスキーと言えばバーボンですが、独立前まではラム酒の方が多く飲まれていました。
理由は、あの悪名高き「三角貿易」。

アメリカはアフリカにラム酒を輸出し、アフリカは農園で働く奴隷をカリブ諸島に輸出し、カリブの島々はサトウキビからとれた砂糖や糖蜜をアメリカに輸出していました。
ラム酒は、アフリカで奴隷を買うための「通貨」の役割を果たしていたのです。

この糖蜜を利用してラム酒を造っていたのは、ニューイングランド地方に入植したイギリス人たち。
なにせ廃棄するしかなかった糖蜜から造るわけですから、ブランデーなどに比べとても安上がりです。
このことが、植民地争いにおいてイギリスがフランスなどのヨーロッパ諸国より一歩先を行くことができた理由です。
まさに、奴隷制度の陰にはラム酒の存在があったのです。

ところが、奴隷貿易が衰退するにつれ糖蜜が入手しにくくなります。
やがてアメリカの独立機運が高まる頃には、相対的に値段の安かったウィスキーの方が優勢になっていました。
バーボンという酒の生い立ちには、「スコッチ・アイリッシュ」と呼ばれるスコットランド系のアイルランド移民が深く関わっています。

物語の始まりはイギリス。
1707年にスコットランドがイングランドに併合されると、ウィスキーへの課税も決定されます。
これに反発したスコッチ・アイリッシュは酒の密貿易を始めました。

オランダやフランスから密輸した蒸留酒を、夜のうちにイギリスの海岸に荷下ろししたことから、この密貿易は「ムーンシャイン(月光)」と呼ばれていました。
犯罪の割りには随分ロマンチックな隠語ですよね。
ギャング団を形成する彼らは、イングランドから派遣された軍隊とも一戦を交えるほど過激な集団。

そもそもイングランドから見れば、スコットランドやアイルランドは都から遠く離れた「化外(けがい)の地」。
得体の知れない野蛮人が住む未開の土地と思われていました。
この無法者たちの受け皿となったのがアメリカでした。

1717年前後から、スコッチ・アイリッシュは、大挙して南北のカロライナ州やペンシルヴァニア州への移住を開始します。
それからさらに、権力の干渉を受けない自由な土地を求めて、より辺鄙な西部へと歩を進めていくのでした。
東部に住む文明人の目にも、彼らは不気味な存在として映っていました。
なぜなら、わざわざ未開の荒野を住処に選ぶ理由が全く理解できなかったからです。

先住民に囲まれて暮らすスコッチ・アイリッシュは、鹿皮を身に纏い脂ぎって髪は伸び放題。
しかし、ライフルを手にするや否や恐るべき精度で小さなリスをも撃ち抜きます。
その優れた戦闘能力以外に特筆すべき点があるとすれば、穀物をアルコールに変える能力でした。

独立戦争の際、北部に向かうイギリス軍が最も警戒したのもこのスコッチ・アイリッシュ。
独立軍の敗色が濃厚と思われた1780年、イギリス軍のコーンウォリス将軍は自軍の側面にあたる西側を防衛するため、血気盛んなパトリック・ファーガソン少佐の指揮のもと千人あまりの部隊を送り込みます。

しかし、少佐は明らかにやり過ぎました。
開拓民たちを「雑種犬の群れ」とこき下ろし、ブルーリッジ山脈の麓で「国王に降伏しなければ『火と剣』で滅茶苦茶にしてやる」と脅したのです。

これは完全に逆効果。
国王と袂を分かって祖国を棄てた、スコッチ・アイリッシュたちの忌まわしい記憶を呼び起こしてしまいました。
直ちにライフル一丁と野宿用の毛布を携えた2千人の男たちが集結します。

そして、サウスカロライナ州キングス・マウンテンでイギリス軍を一気に追い詰めると、少佐に8発の銃弾を撃ち込んで止めを刺したのでした。

スコッチ・アイリッシュ側の被害は死者28人、負傷者62人。
対するイギリス軍は死者約300人、負傷者163人。
加えて700人近くが捕虜となります。
この勝利は独立軍の士気を大いに高めました。

トーマス・ジェファーソンは、「この勝利によって戦いの潮目が変わり、独立の旗印のもと革命戦争を終結させることができた」と手放しで称賛します。
ジョージ・ワシントンは、「戦いは『わが国の胆力(スピリット)と兵力』を確かに証明した」とやや控えめの賛辞に終始しますが、そのワシントンも10年後には同じ過ちを犯してしまいます。

アメリカ初代大統領としてウィスキーへの課税を試みて、スコッチ・アイリッシュの暴動を引き起こしてしまったのです。
連邦軍は1万3千人を動員して暴動の鎮圧に成功しましたが、これに懲りたアメリカ政府はその後ウィスキーに対する恒久的課税には慎重な姿勢を取らざるを得なくなります。

ところで、あまり知られていないことですが、そのジョージ・ワシントンも政界引退後にウィスキー蒸留業に手を出しています。
農場の雇用人であるジェームズ・アンダーソンというスコットランド人の勧めに従い蒸留所を建設するのですが、4万リットルを超えるライ麦とトウモロコシのウィスキーを製造していたといいますから結構な規模ですよね。

この課税反対の暴動がきっかけとなり、スコッチ・アイリッシュは当時まだ外国だったケンタッキーやテネシーなどの西部地域に逃れていくことになるのですが、その頃のケンタッキーでは後に「バーボンの祖」と呼ばれる牧師のエライジャ・クレイグがトウモロコシでウィスキーを造っていました。
ヴァージニア出身の開拓者にして教育者、しかもジョージタウンという町の創立者でもあるクレイグは、樽の内側を焦がす手法を最初に発見した人物とも言われています。
そこにスコッチ・アイリッシュが加わったことで、ケンタッキーはウィスキーの一大産地へと変貌を遂げたのです。

ところで、なぜケンタッキー州で造られるウィスキーのことを、「バーボン」と呼ぶようになったのでしょう。
名前の由来は、意外にもフランスの「ブルボン王朝」。
アメリカ独立戦争の際、ブルボン王朝は13の植民地を支援したのですが、第3代大統領トーマス・ジェファーソンはこれに感謝の意を表し、ケンタッキー州のある郡を「ブルボン」と命名します。
ブルボンの英語読みは「バーボン」。

ケンタッキー州で作られるウィスキーのほとんどは、当時は広大だったバーボン郡の都市ライムストン(現在はバージニア州メイソン郡)のオハイオ川に面した港から蒸気船で出荷されていたので、いつしか「バーボン・ウィスキー」と呼ばれるようになったと言われています。
しかし、皮肉なことに当時のバーボン郡には蒸留所はひとつもありませんでした。

ちなみにアメリカは酒類への規制が非常に厳しく、現在でもドライ・カウンティー(禁酒郡)は全米で500以上もあります。
バーボンの産地ケンタッキー州でさえ、120のうち80の郡が規制対象。

『ジャック・ダニエル』の本社のあるテネシー州ムーア郡も禁酒郡です。
そのため、蒸留所の見学ツアーであっても試飲はできません。
なんでも、禁酒郡にある蒸留所では、出来上がったウィスキーの味を確かめる時はわざわざ隣の郡に出掛けて行くのだとか。
本当でしょうか?

でも、禁酒郡に住む人たちが酒を飲みたい時は、規制されていない郡まで車を走らせるというのは本当です。
飲酒運転の取り締まりの方はどうなっているのでしょう。
そういう意味では全国どこでも酒が飲める日本は天国ですが、飲酒が合法な郡と違法な郡が存在するという構図は、そっくりそのままある種の薬物が合法な国と違法な国が存在する構図と同じです。
だから、お酒はほどほどにしましょうね。

さて、前置きが随分長くなってしまいました。

これまでウィスキーに関する作品は26話ほどアップしてきましたが、2016年11月の『作家とウィスキー』以外はすべてスコッチの話でした。

今回取り上げるのはバーボンのひとつ『メーカーズ・マーク』です。

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