株式会社ファイブスターズ アカデミー
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麻薬の禁断症状の苦痛に耐えかねたゲッツが、ホテルの向かいにあるドラッグストアに押し入ったのは朝の7時すぎ。
ポケットに手を突っ込んで、あたかも拳銃を持っているかのように装って鎮痛用のモルヒネを手に入れようとしたのですが、見破られて何も取らずにホテルに逃げ帰るはめに。
通報を受けて駆けつけた警官は、パニック状態でホテルの廊下を歩き回っているゲッツをすぐに発見します。
でも、ゲッツは根っからの悪人ではありませんでした。
逮捕されたゲッツが真っ先に警官に言った言葉は、「申し訳ないことをした。拘引される前に謝りたいので少し待ってほしい」
本当は気の小さい人間なのかもしれません。
しかし、直前に残りのバルビツールを一気に飲み込んでいたため、監房の中で呼吸障害に襲われます。
運ばれた救急病院で器官の切開手術を受け一命を取り留めますが、これが錯乱状態による事故だったのか、あるいは意図的な自殺未遂だったのかは本人以外の誰にもわかりません。
その後、カリフォルニアの法廷で6ヶ月の刑期を宣告されますが、何はともあれ警官に銃を向けたことと、ドラッグストアの強盗未遂が罪に問われなかったことは幸運でした。
ロサンゼルス郡刑務所で無事刑期を終え、54年8月には晴れて自由の身となりますが、これほど酷い経験をしたのに麻薬と手を切ることだけはできませんでした。
これが薬物の恐ろしいところ。
出所の3日後、ロサンゼルスの「ティファニー・クラブ」で初仕事をした相手が、これまたジャンキーで有名なトランペッター、チェット・ベイカーだったというのはある意味象徴的です。
その後、トロンボーン奏者のボブ・ブルックマイヤーとのグループを復活させ、そのバンドを率いてノーマン・グランツの主催する「モダン・ジャズ・コンサート」ツアーに参加します。
ゲッツが無事刑期を終えたことを知っているファンは、行く先々で大きな拍手を贈りました。
59年にはJATPの一員としてヨーロッパツアーに出かけますが、この前科が影響したのかイギリスでは入国を拒否されてしまいます。
「ヨカラヌ者の入国を拒否するならば、13歳で鉄砲をぶっ放していた不良少年、ルイ・アームストロングの入国をなぜ認めるのか」
メロディ・メイカー誌の投書欄を飾ったこの一文がイギリス中の拍手喝采を浴びたことから、当時のヨーロッパではゲッツがかなり高い評価を受けていたことがわかります。
ただし、この投書の内容は必ずしも正確ではありません。
ルイ・アームストロングが11歳の大晦日のパレードで、空に向けてぶっ放したのは38口径の拳銃です。
そして、ぶち込まれた少年院で憧れのコルネットを演奏するチャンスを得たことで、ルイの人生は大きく変わったのでした。
この好意的な投書がきっかけとなったわけではないでしょうが、その後ゲッツはアメリカを離れコペンハーゲンに居を構えます。
そして、その2年後に帰国してみると、先述したようにジャズシーンはまさに「カオス」の状態。
フリー・ジャズの騒音に辟易していたジャズファンは、彼のライト・バースを歓迎します。
62年に『ジャズ・サンバ』が大ヒット。
翌年、『ゲッツ/ジルベルト』がグラミー賞4部門を独占する頃には、スタン・ゲッツの名前はジャズファン以外にもすっかり知れ渡るところとなります。
しかし、その音楽もまた、すっかりジャズ以外の“何か”に変わってしまっていたのでした。
そんな彼の人物評というと、「傲慢」とか「気分屋」といった批判的なものばかりですが、彼とラスト・デイト(最後の録音)を共にしたピアニストのケニー・バロンの回想からは、全く別の顔が浮かび上がってきます。
レコーディングの最中に突然中止宣言をして帰ってしまった次の日、申し訳なさそうに電話口で「自分のプレイに戸惑いを覚えたから」と弁明したかと思えば、また別の日には演奏中にもかかわらずバロンに近寄り、「まずいプレイをして申し訳ない」と謝罪します。
そして、「一杯やりたい気分なので、しばらく皆で雑談していてくれないか」と言い残して出掛けてしまいますが、翌日にはせっせと断酒会に通っているのでした。
ちなみにバロンによれば,ゲッツがダメ出しした演奏は実にグレイトなもので、どこが気に入らないのか全くわからなかったそうです。
あまりにも自分に厳しいその姿が、周囲には「傲慢」とか「気分屋」と映っていたのかもしれません。
自分に厳しい姿勢は死の直前まで貫かれます。
晩年、ガンで余命1年半と宣告されたにも関わらず、精力的にコンサートをこなしました。
「これが見納め、聴き納め」とばかりに多くのファンが詰め掛け、ゲッツの全力プレイに拍手を贈ります。
時にはステージ上で苦悶の表情を浮かべながらも、いざ演奏となれば全く手を抜かない姿には鬼気迫るものがありました。
しかし、残念ながらあの煌めくような若き日の演奏とは比べるべくもありません。
あらゆる治療にチャレンジする彼の執念が、少しずつではありますがロウソクの炎を引き延ばします。
宣告を大幅に超える3年後の1991年6月6日、ついに帰らぬ人となりました。
享年64。
マハトマ・ガンジーの名言に、「明日死ぬかのように生きよ」というのがあります。
まさに、毎回「これが最後」と覚悟してステージに立つ、ゲッツの生き方そのものではありませんか。
ただし、ガンジーは刹那的に生きよと言っているわけではありません。
名言はこう続きます。
「永遠に生きるかのように学べ」
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