株式会社ファイブスターズ アカデミー
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マックス・ローチが、プラカードを掲げてカーネギー・ホールに乱入したことで、歴史的なコンサートは中止の瀬戸際に追い込まれました。
しかし、スタッフが懸命に説得を続けた結果、マイルスは再びステージに現れます。
鳴り止まぬ拍手の中、マイルスの体は怒りで小刻みに震えていたといいます。
バリトン・サックス奏者のジェリー・マリガンは、その様子を「制御されたバイオレンス」と表現しましたが、確かにその後のマイルスの演奏には鬼気迫るものがありました。
ライヴでは曲名どころかメンバーも紹介せず、ステージが終盤に差し掛かると演奏の途中なのに勝手に楽屋に帰ってしまうなど、日頃のマイルスの傍若無人の振る舞いに疑問を呈していた批評家のジョン・S・ウィルソンでさえ、「昨夜はマイルス・デイヴィスの大勝利である。無二無三の全能とも言うべきトランペットの腕前を見せつけた」と最大級の賛辞を贈りました。
それにしても、ローチはなぜこんな過激な行動をとったのでしょう。
後に、コンサートの主催団体が南アフリカのダイヤモンド業者と繋がっていることに抗議したかったからだと弁明しますが、これはどうやらローチの勘違いだったようです。
ただ、本人も自分のとった行動についてはいたく反省していたようで、終演後楽屋口の扉越しにこう叫びます。
「マイルスに済まなかったと伝えてくれ。あんまり君が素晴らしいんで前半は泣きっ放しだったんだ。マイルスに俺が好きだと言っていたと伝えてくれ」
案外、気の小さい男なのかもしれません。
いずれにせよ、図らずもマイルスの逆鱗に触れるという形で、「怒れるマイルス」という新たなポテンシャルを引き出してしまったことは事実です。
実は、ゴスペル・シンガーを母に持つこの男こそ、筋金入りの人種差別反対論者でした。
その反骨心の象徴が、60年にリリースした『ウィ・インシスト!/フリーダム・ナウ組曲』。
「フリーダム・ナウ」は、プラカードに書かれていたスローガンです。
そのアルバムを見た人々は一瞬で凍りつきました。
なぜなら、ジャケット写真が絶対にあり得ない構図だったからです。
椅子に座ってこちらを振り向く3人の黒人客と、そのカウンター越しに控える白人のウェイター。
なんということでしょう!
当時のアメリカでは、白人が黒人に給仕することなどはあり得ない、というより絶対にあってはならないことでした。
この写真は、ノース・キャロライナ州グリーンズボロで起こった「シット・イン」運動を再現したもの。
シット・インとは、ウールワース百貨店の白人専用ランチ・カウンターに黒人学生たちが陣取り、食べ物が提供されるまで座り続けた非暴力運動を指します。
この運動はあっという間に全米78都市に拡大し、黒人だけでなく白人も含めて5万人が参加するという大規模なものに膨れ上がり、ついには公民権運動のひとつにまで発展しました。
ジャケットを見ればローチのインシスト(主張)は一目瞭然。
ローチの演奏をバックに、後にローチの妻となるアビー・リンカーンがヴォーカルを務めるのですが、彼女の芸名はエイブラハム・リンカーンにあやかってつけられたもの。
歌詞は公民権運動家のオスカー・ブラウンJrが書いたもので、最初の収録曲は『ティアーズ・フォー・ヨハネスブルグ』。
ヨハネスブルグは、長年アパルトヘイトを続けた南アフリカ共和国の首都です。
よくもまぁ、こんな問題作があの時代に発売できたものだと感心します。
白人にしては珍しく、人種差別に批判的だったナット・ヘントフが監修をしていたキャンディド・レーベルだからこそできた“偉業”でしょう。
それにしても、ヘントフだって決断するには相当の勇気が必要だったはず。
現在のように、差別反対派が圧倒的多数を占める時代に、「人種差別反対」を叫ぶのは子供でもできることです。
でも、激しい迫害を受けていたあの時代に、「人種差別反対」の声を上げたミュージシャンは数えるほどしかいませんでした。
その先頭にいたのがマックス・ローチ。
まさに反骨心の塊のような男です。
考えてみると、アメリカは長い長い暗黒の時代を経験したことで、「人権」の大切さに目覚めることができたとも言えます。
もちろん、今でも人種差別が完全になくなったわけではありませんが、他国の人権侵害に対しても政府や議会が厳しい目を向けています。
ヨーロッパの場合は、ナチスのユダヤ人迫害から多くのことを学びました。
しかし、日本はどうでしょう。
ある政治家は、選挙の応援演説に行くと「票にならないから人権の話はしないでくれ」と釘を刺されると嘆きます。
ワイドショーも、人権問題では視聴率が取れないためかほとんど扱いません。
もしかしたら、日本は世界で最も人権意識の低い国なのかもしれません。
ところで、私事ですがローチが77年にピアノレスのクァルテットを率いて日本ツアーを行った際、コンサートのプログラムにサインを書いてもらったことがあります。
大したジャズファンでもなく、有名人のサインなどに全く興味がなかった私が、なぜそんな気を起こしたかというと、列に並んでいる人数がたった2、30人しかいなかったという極めて下衆な理由によるものです。
でも、これが地方会場のいいところ。
脇では、レジー・ワークマンがベースをケースにしまい込んでいました。
名前を聞かれたので「トオル」と答えたのですが、ローチは「T」と書き込んだ後ふとペンを止め、私の目を覗き込みながら「ダブル・オー?」と尋ねてきました。
そのプログラムはどこかに行ってしまいましたが、今でもネットのサイトにクレジットカード情報として自分の名前の英語表記を入力する時には、なぜかきまってこの光景を思い出します。
困ったことに、その時の優しい眼差しと「反骨の戦士」というイメージが、私の中ではどうしても結びつかないのです。
本当にこの人が、プラカードを掲げてコンサートに乱入したり、身の危険も顧みずに人種差別反対のアルバムをリリースした人なのでしょうか。
いや、もしかしたら、人に対するどこまでも優しい眼差しがあったからこそ、人に対する差別というものが許せなかったのかもしれません。
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