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5☆s 講師ブログ

すべては「人事」から始まった(1)

戦争は二度と起こしてはならない。
それは誰しも思うことですが、日本のマスメディアが唱える「戦争反対」は的外れだと思うのです。
なぜなら、「戦争による悲惨な記憶を風化させるな」と、感情に訴えるだけで、「なぜ戦争が起きたのか」、「どうすれば戦争を防止できたのか」という論理的な検証が全くなされていないからです。
「過ちは繰り返しませぬから」と心に誓えば、自動的に戦争が防止できるわけではありません。

私たちがしなければならないのは、なぜ止められなかったのかその原因を究明し、権力に暴走させないための制度的なシステムを構築することです。
今回は、『昭和の怪物 七つの謎』という著書で、東條英機にスポットを当てた、保阪正康の考察を紹介したいと思います。
保阪は東條英機の人物像を炙り出すため、関係者に綿密な取材を行っています。
中でも東條の秘書だった赤松貞雄には、10数回も直接ヒアリングを行いました。

当時の大日本帝国陸軍は、陸軍大将眞崎甚三郎らを中心とする、クーデターも辞さないという「皇道派」が強い勢力を持っていました。
しかし、意外なことに東條は、政財界に接近することで合法的な軍事政権の樹立を目指す「統制派」の方に属していました。
派閥争いで劣勢に立たされた東條は、久留米の旅団長に左遷されてしまいます。
この時、東條の将来性に目を付けてすり寄ってきていた将校たちは、一斉に離れていったといいます。
なんだか、サラリーマン社会と似てますよね。

しかし、二・二六事件で眞崎が失脚すると、東條は陸軍次官として東京に舞い戻ります。
軍が東條を抜擢したのには理由がありました。
それは、強引で自分に都合のいい論理しか口にしない軍官僚こそが、陸軍を動かすのにもっとも相応しいと考えたからです。

相手を批判する時は常に大声。
しかも感情的。

東條は、陸軍の体質を擬人化したような存在だったのです。
大日本帝国の軍人というのは、文学書はもちろんのこと一般の政治書や良識的な啓蒙書など、およそ「書物」と名のつくものは一切読まなかったそうです。
全ては実学の中で学び、「軍人勅諭」が示す精神空間の中で人間形成がなされていったのです。

東條には思想や哲学がないとよく言われますが、保阪は思想や哲学の意味さえわからなかったのではないかと推測します。
こんなエピソードが残されています。
終戦後、戦犯の疑いで収容されていた巣鴨プリズンでのこと。

20代になったばかりのアメリカ陸軍憲兵(MP)が、民主主義とは何かについて連日東條に語り聞かせました。
すると東條は、面会に来た側近に「非常に感銘を受けた」と話したというのです。
腰が抜けるような話ですが、東條にとって人の話をじっくり聞いたのは、おそらくこれが人生で初めての経験だったのでしょう。
東條英機は、駐在武官などからアメリカに関する有益な報告が上がってきても、一切聞こうとしませんでした。
アメリカに関するマトモな知識が全くない中で、自分の思い込みだけでアメリカとの戦いを始めたのです。

東條は現実の真っ只中で、2つの選択肢のうちどちらを選ぶかという岐路に次々と立たされ、その都度反射神経だけで進むべき方向を決定していただけでした。
1941年(昭和16年)9月6日の御前会議で、10月上旬をメドに対米交渉を進め、もし妥結の方向に向かわなければ直ちに開戦するという決定がなされます。
その期限が迫る10月14日のことでした。

首相近衛文麿は、戦争回避のための最後の試みとして、閣議直前に陸相の東條を官邸に呼び、中国からの撤兵案を持ちかけます。
日本にとって、戦争を食い止める最後のチャンス。
最後の二者択一でした。

その時の東條の答えは、「軍の士気維持の上から到底同意し難い」というもの。
なんと東條は、開戦か否かの選択に当たり、「軍隊の士気を維持するため」というビックリするくらい低レベルの理由で「開戦」の方を選択したのです。
国の将来に思いを巡らすことは、一瞬たりともありませんでした。

でも、今の私たちに、この時の東條を批判する資格があるでしょうか。
なぜなら、東條と同様に戦争の是非についての論理的な思考を一切拒否し、感情や反射神経だけで結論を下そうとしているからです。

今回のコロナ報道もそうです。
政府の対策に対して論理的な検証を試みるような番組はなく、ただ単に視聴者の「恐怖」感情に訴えかけることで、政府に対する「怒り」を増長させるものがほとんどでした。
戦前も現代も、論理的にモノを考えようとしないという点では大して変わりありません。

保阪は、東條のようなタイプの政治家、軍人には3つの共通点があると言います。
①精神論が好き
②妥協は敗北
③事実誤認は当たり前

でも、こういうタイプの管理職って現代でもいますよね。
1944年6月にサイパンが陥落した時も、東條は「雨水がかかった程度のこと。恐るるには足りない」と言い放ちます。
「サイパンの戦況は我々日本人に与へられた警示である。まだ本気にはならぬか、真剣にならぬか、未だか未だかと云ふ天の警示だと思ふ。日本人が最後の場面に押しつめられた場合に、何くそと驚異的な頑張りを出すことを私は信じて疑はない」

真剣になりさえすれば必ず道は開ける、そう唱える精神論者は今でも決して珍しくありません。
でも、本当に東條英機ひとりが悪者だったのでしょうか。

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