株式会社ファイブスターズ アカデミー
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その夜、シルバーのホンダ・シビックは、週末を過ごす予定のアンダーソン渓谷に向けて、ハイウェイをひた走っていました。
トチノキの花の香りを乗せた乾いた風が吹く、5月のカリフォルニア。
暗闇の中に、ヘッドライトに照らされた道路沿いの木々が次々と浮かび上がりますが、夢想に時を委ねるドライバーの目には全く別のものが映っていました。
それは、DNAがほどかれていく様子です。
彼の頭の中は、DNAの暗号をどうやって解読するかでいっぱいでした。
すると突然、あるアイデアが舞い降りてきます。
慌ててカーブの路肩に車を停車させますが、助手席の恋人であり職場の同僚でもあるジェニファーは相変わらず微睡みの中。
男は素早くダッシュボードから封筒と鉛筆を取り出すと、思い浮かんだ化学式を一心不乱にメモし始めました。
128号線の75キロポスト地点。
そこが来るべき時代の夜明けの、まさに直前の位置であったとキャリー・マリス博士は述懐します。
彼が思いついたのはオリゴヌクレオチド。
20塩基対にも満たないごく短いDNAの一断片ですが、DNAと混ぜ合わせると相補的に一致する配列を見出して、そこに結合する性質があります。
しかも、マリスが勤務するシータス社の研究室でも簡単に合成することができます。
1個の細胞に含まれるDNAは、全部で30億塩基対からなる長大なもの。
本にすると数10巻、いや数100巻にも及ぶ壮大な物語となります。
その全巻を一気に読み解くことは不可能ですが、文章の一部分、すなわち単語の短い連なりだけを取り出すことができれば、その文章の意味を解読できる可能性は高まります。
マリス博士のアイデアはこうです。
まずDNAを加熱することで、二本鎖をほどいて一本鎖にします。
次にオリゴヌクレオチドを投与し、DNAのある特定の場所に結合させます。
さらに、もう一度オリゴヌクレオチドを投与して先ほどの結合部のすぐ下流に結合させ、2つの結合部の間に存在するDNAを切り出します。
この断片が文章の一部です。
後はDNAの特性を利用して、この溶液の温度を上げ下げすれば、断片のコピーを大量に作り出すことができるはず。
1回で2個、2回で4個。
指数関数的に増大するので、10回繰り返せば2の10乗で1,024個。
マリスの思いついた、この単純にして画期的な「ポリメラーゼ連鎖反応法」は、英語で言うと「ポリメラーゼ・チェイン・リアクション」。
私たちには、その頭文字をとった「PCR法」という名称の方が馴染み深いでしょう。
新型コロナウイルスの流行で、その仕組みも知らないド素人が、偉そうにワイドショーで頻繁に口にする分子生物学の専門用語です。
しかし、このアイデアが世の中に認められるまでには、多くの紆余曲折がありました。
週明けにバークリーに戻ったマリスは、朝から図書館に籠ります。
手順としてはあまりに単純なだけに、既に論文として発表されているのではないか。
隅から隅まで隈無く調べますが、それらしき論文は見当たりません。
それでも安心はできません。
今度は、多くの分子生物学者にこのアイデアを伝えて、何か見落としがないか聞いて回ります。
その結果、この単純な手法を試みた研究者は、いまだかつてひとりもいないことが判明するのですが、一方で出鼻を挫かれる思いもします。
それは、話を聞いた友人や同僚が、誰ひとり「すごい!」と言わなかったことです。
でも、これには理由がありました。
仲間内の評判では、マリスは日頃から突拍子もないヨタ話を吹聴することで有名な人物だったからです。
しかし、今回ばかりは違っていました。
いつものようにすぐに実験に取りかかることはせず、逸る心を抑えながら慎重に事を進めます。
研究所内外の人間にアイデアを聞いてもらった上で、満を持して8月のセミナーでコンセプトを発表しますが、興味を示したのはたったの1人か2人。
それでも信じた道を諦める訳にはいきません。
9月に本格的な実地試験に取りかかり、様々な改良を加えること3カ月。
1983年12月16日、ついに実験は成功します。
マリスがこの日付を鮮明に記憶していたのは、その日が別れた妻のシンシアの誕生日だったからです。
妻と、2人の息子に去られた寂しさを埋め合わせてくれていたのがジェニファーだったのですが、研究のことで頭がいっぱいのマリスとの仲は急速に悪化していきます。
もうすぐクリスマスだというのに、とうとうジェニファーは研究所を辞め、ニューヨークに去ってしまいました。
彼女が並べ立てた別れの理由は、全てマリスに責任があることを指し示していましたが、不幸なことにマリスはそのどれひとつとして気づいていませんでした。
原因は、研究に没頭すると周りが見えなくなる悪い癖か、あるいはもって生まれた極端な自己チュー性格か?
世紀の大発明をしたというのに、ともに喜びを分かち合える仲間といえば、助手として雇った学生のフレッドしかいません。
その日の帰り道、フレッドの家に立ち寄って「この発明は分子生物学に大革命をもたらすことになる」と伝えるのですが、フレッドの反応は「あなたがそう言うのなら、そうなんでしょう」という何ともつれないもの。
がっくりと肩を落とすマリス。
玄関を出て冷たい霧雨の降る中を、小さなホンダ・シビックに向かってとぼとぼと歩いていきます。
車内にあったのは、空になったコーヒーのボトルと、来るべきPCR時代に向けての微かな曙光。
しかしそのいずれも、ジェニファーを失った寂しさを埋め合わせてくれるものではありませんでした。
世紀の大発見をしたというのに、マリス博士は孤独のどん底にいたのです。
でも、世界はこの大発見を見逃しませんでした。
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