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5☆s 講師ブログ

プロミスド・ランド(1)

テナー・サックスのジョン・コルトレーンが、ブルーノートに残した唯一のリーダー・アルバム『ブルー・トレイン』。
57年9月録音のモダン・ジャズ史に残る名作です。
実は、この作品はコルトレーンの義理堅さから生まれたものでした。

麻薬と深酒のため満足にバンドスタンドに立つことさえできず、マイルス・デイヴィスからクビを言い渡されたコルトレーンは、カーティス・フラー(トロンボーン)に相談を持ちかけます。
フラーは、「アルフレッド・ライオンが君のアルバムを作りたがっているから行ってみたら」とアドバイスしました。

ライオンは言わずと知れたブルーノートの創始者。
しかし、麻薬代欲しさにレコーディングを申し出るというのも、ちょっと気が引けますよね。

そこで、「ソプラノ・サックスの練習を始めたので、シドニー・ベシェのアルバムを買いたいのだが」とライオンに持ちかけます。
しかし、あいにくこの日は契約を担当するフランシス・ウルフが不在。
そこで、ライオンは取りあえずポケットマネーから20ドルを渡しました。

当時の日本円にして7,200円。
あまりに少額のように感じますが、この頃のレコード会社の契約は「印税は生産枚数の9割が売れた段階で支払う」というものが多く、前渡し金といってもスズメの涙というのが相場でした。
だから、ジャズ・ミュージシャンは、生活のためにジャズクラブでのライヴに精を出さなければならなかったのです。

そんなコルトレーンもアトランティックと契約した時は結構な前金を貰ったようで、クイーンズのセント・アーバンスに一軒家を購入しています。
パティオ(前庭)つきで、玄関のドアにたどり着くまでには大きめの4段のステップ(階段)を昇らなければならない、彼にとってはまさに”豪邸”です。
よほど嬉しかったとみえて、意気揚々と吹き込んだアルバムのタイトルは『ジャイアント・ステップス』。
大股のステップを踏んでドアに向かう、コルトレーンの嬉しそうな顔が浮かんでくるようですよね。

でも、タイトル曲からは浮かれた様子は微塵も感じられません。
それどころか、16分音符を羅列したとんでもないスピードの、しかも1音毎にコードをチェンジするという超絶テクニックを要するきわめて難易度の高い曲。

プレスティッジのスーパーヴァイザー、アイラ・ギトラーが「シーツ・オブ・サウンド」と形容した、あの独特の演奏スタイルの集大成として今もあらゆるサックス奏者の登竜門となっている曲です。

「シーツ・オブ・サウンド」は、直訳すれば「敷き詰められたサウンド」となるのでしょうが、どちらかというと「音の洪水」の方があっているような気がします。

コルトレーンは、57年のかなり早い時期にプレスティッジと契約してしまうのですが、律義な彼は契約書に「ブルーノートにも録音できる」という一文を盛り込んでいました。
20ドルの恩義を忘れていなかったのです。

『ブルー・トレイン』の収録メンバーはリー・モーガン(トランペット)、ケニー・ドリュー(ピアノ)、フィリー・ジョー・ジョーンズ(ドラムス)、ポール・チェンバース(ベース)。
全てコルトレーン自身の人選によるものです。

前日のリハーサルも順調に終わり、家に帰ろうと駅に向かったコルトレーンは、そこでばったりフラーに出くわします。
翌日のレコーディングの話を聞いたフラーはゴネ始めました。
そもそもこの話は、オレがきっかけで始まったのに、そのオレが蚊帳の外というのは納得いかない。

フラーの言い分はごもっとも。
ついにはコルトレーンが折れて、彼もメンバーに加えることになったのでした。
コルトレーンにしては珍しい3管編成は、フラーの「ゴネ得」の結果実現したものだったのです。
でもこの編成は結果的に大正解でした。

さて、ジャズファンの中には私も含めてコルトレーンの「絶対的な信者」が数多く存在しますが、彼が人種差別に強く反対していたことはあまり知られていません。
膨大な資料をもとにそれを明らかにしたのは藤岡靖洋。
呉服店を経営する、熱心なコルトレーンの研究者です。

コルトレーンが12歳の時に早世した父親のジョン・ロバート・コルトレーンは、ノース・キャロライナ州のハイポイントという街で、洋服の仕立てとクリーニング店を営んでいました。
北に隣接するヴァージニア州はタバコの生産が盛んな土地で、それを輸送するための鉄道拠点があったのがハイポイント。
この辺りには、タバコ・プランテーションを展開するために、数多くの黒人が奴隷として連れて来られていました。

アメリカではかなり珍しいコルトレーンという名前は、スコットランドのローランド地方に由来するものだそうです。
開拓者としてアメリカ大陸にやって来たローランド人は、所有する黒人奴隷たちに自分の名前を名乗らせました。
おそらくコルトレーンの先祖も、ローランド人の下で働く奴隷の一人だったのでしょう。

コルトレーンは、高校を卒業するとすぐにワシントンDC行きの列車に飛び乗ります。
差別の激しい南部のハイポイントに未練はありませんでした。
向かった先はフィラデルフィア。
途中の乗り換え駅DCはもう北部の一部です。

南部では白人と黒人は別々の車両に乗らなければなりませんが、北部にはそんな規則はありません。
偶然白人の女性が目の前に座り、コルトレーンはいたく興奮したといいます。

この南部と北部における差別の程度の差が、55年に起こったある黒人少年の悲劇の原因となるのですが、この事件はコルトレーンのアルバムの収録曲にも影響を及ぼすことになります。
30歳にしてようやくリーダー・アルバムをリリースするチャンスを掴んだコルトレーンが、気合い十分で仕上げたアルバムは、その名もズバリ『コルトレーン』。

冒頭を飾る曲は『バカイ』です。
バカイとはアラビア語で「叫び」の意味。
作曲は、コルトレーンの親友にしてフィラデルフィアでは大人気のトランペッター、キャルヴィン・マッシー。
人種差別が緩やかな北部のシカゴで育った14歳の黒人少年、エメット・ティルの死を悼んだ慟哭の曲です。

エメット少年は、夏休みに親戚の家がある南部のミシシッピー州に遊びに行き、そこで白人女性に向けて口笛を吹きます。
北部ならせいぜい「ませたガキね」と眉をひそめられる程度で済む話ですが、南部においては決して許されない行為でした。
エメットは、白人女性に「口笛を吹いた」というただそれだけの理由で、凄惨なリンチを受けます。

片目を抉り出されて頭に銃弾を撃ち込まれた挙げ句、死体は重りをつけた有刺鉄線で首をグルグル巻きにされ川に投げ捨てられました。
このニュースは全米で報じられ大きな反響を呼びます。

ボブ・ディランは『エメット・ティルのバラッド』というプロテスト・ソングを作り、この野蛮な行為を非難しました。
初のリーダー・アルバムに人種差別を扱った作品を盛り込んだのは、コルトレーンの強い意思の表れに他なりません。

これほどの問題作なのに、録音からわずか5カ月後の57年10月に無事アルバムを発売できたのには理由があります。

プレスティッジは、一度レコーディングしたテープを使い回して録音するほど資金繰りに苦しむ貧乏会社。

あまりにマイナーなレーベルだったので、誰も注目していなかったのです。

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