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5☆s 講師ブログ

最期のことば(2)

西郷は、全身に殺気を漂わせる刺客と対峙すると、おもむろに口を開きました。
「私が吉之助だが、私は天下の大勢などというむつかしいことは知らない。まあお聞きなさい。私は先日大隅の方へ旅行した。
その途中、腹がへってたまらぬから十六文で芋を食ったが、たかが十六文で腹を養うような吉之助に、天下の形勢などというものがわかるはずがないではないか」と、今度は大口を開けて豪快に笑い出しました。
あまりの剛胆さに度肝を抜かれた刺客は、挨拶もせずに逃げ帰ったといいます。

さて、そんな幕末の獅子たちは、どのような「最期のことば」を遺したのでしょう。
龍馬が死の4日前、薩摩藩海軍最高幹部の林謙三という人物に宛てた書状の末尾は、「やがて方向を定め、修羅か極楽かにお供申すべく候」と結ばれています。
不吉な予感にかられた林は、急ぎ大坂から京都河原町の近江屋に駆けつけますが、彼が目にしたのは二階八畳間に広がる夥しい血溜まりでした。

一方、西郷の最期は西南戦争。
政府軍の全ての降伏勧告を拒否し、鹿児島の城山の洞窟に立て籠っていた西郷と桐野利秋以下の将校は、整列すると敵のいる岩崎谷口に向かって整然と下山を始めます。
三方からの政府軍の一斉射撃の銃弾が降り注ぐ中、ひとりまたひとりと兵士が倒れていきます。

配下の別府晋介が「ここらで如何でせう」と訊きますが、西郷の答えは「まだまだ、本道に出てから立派に死のう」
さらに行くこと一丁あまり。
いよいよ銃弾の嵐は強まり、山上からの流れ弾が西郷の股と腹に命中します。

西郷の最期のことばは「もう、こん辺(あたり)でよかろ」

なんと言う達観。
彼らは、まるで歴史における自分の役回りを心得ていて、幕の降りる時が訪れたこともまた、運命として静かに受け入れているかのようです。

江戸城無血開城の立役者である勝海舟は、官軍が江戸城総攻撃をかける前日、羽織袴姿で馬に跨がり芝にある薩摩屋敷に陣取る西郷隆盛を訪ねます。
お供はたったのひとりだけ。
西郷とサシの膝詰め談判に臨みますが、次の間には大勢の刺客が刀の柄に手をかけて控えていました。

城の明け渡しの条件は、将軍慶喜の助命と徳川家の存続を朝廷に認めさせること。
慶喜は勝のストレートな物言いを最も忌み嫌い疎んじた人物で、役職から外すなどの人事上の嫌がらせを何度もしています。

ところが、そんな私怨に囚われないところが勝海舟の大人物たる所以。

もし、朝廷が受諾しなければ、その時は江戸の住民を海路木更津に待避させた上で、江戸中の火消しに市中四方から火を放たせて、無人の街に攻め込んだ官軍を丸焼きにするぞとはったりを利かせます。
まさに一世一代の大博打。
その甲斐あって、150万の江戸住民の生命と家屋財産は無事守られたのでした。

ただ、このはったりは満更嘘とも言い切れません。

勝は日ごろから暇を見つけては江戸中を歩き回り、下谷の貧乏町や場末の本所深川の地理まで隈なく把握していただけでなく、吉原遊郭の経営者や芸者、料理屋の女将、踊りの師匠、はては町火消しや任侠の清水の次郎長に至るまで昵懇の間柄となっていました。

まさに勝の一声で、江戸中の庶民が一斉に動き出す態勢は整っていたのです。

「おれなどは、生来(うまれつき)人がわるいから、ちゃんと相場を踏んで居るヨ。上つた相場も、何時か下るときがあるし、下つた相場も、何時かは上る時があるものサ」
事実、この無血開城も、幕府の家臣団からは「大逆心」「腰抜け」「徳川を売るイヌ」と散々罵倒されます。
いつの時代も、歴史の評価が定まるのは大分経ってからのことです。

「世間の相場は、まあこんなものサ。その上り下り十年間の辛棒(しんぼう)が出来る人は、即ち大豪傑だ。おれなども現にその一人だヨ」
そんな勝ですが、明治31年の暮れも押し迫ったある日、訪ねてきた知人にこんなことを言っています。
「何となく死期が近寄つたかと思ふよ。人の息の切れた時は、夢の覚めたのと同じ事だろうよ」
人の一生とは、夢を見ているようなものなのでしょうか。

年が明けて1月19日の夕刻のことでした。
風呂から出た勝は、突然倒れます。
勝と縁戚関係にあり、後に文学者として名を成す戸川残花が「トノサマシス、スグコイ」という電報を携え勝邸に駆けつけた時、すでに意識はありませんでしたが息はまだあったといいます。
電報は誤報でした。

勝の最期を看取ったのは、佐久間象山に嫁いだ妹の順子。
夫が暗殺された後、兄の屋敷に身を寄せていました。
見舞客から意識のなくなる前の様子を問われ、こう答えます。

「とくに何かは申しませんが、コレデオシマイとだけは申しました」

浮き沈みの激しかった夢も、いよいよコレデオシマイということでしょうか。
キリスト教では、死後の魂は天に昇り、「肉体を離れて、主のみもとにいる」と教えます。
死は次のステージへの旅立ちなのです。
だから、キリスト教徒は安らかに死を受け入れることができるのです。

しかし、日本は違います。
コレデオシマイ。
ともすれば絶望的とも思えるこの無常観こそ、『日本人、最期のことば』で西村眞が伝えたかったことなのかもしれません。

こんな逸話を聞かされると、嫌でも自分の「最期のことば」をどうしようかと考えさせられますよね。
ところが、吉武輝子の『夫と妻の定年人生学』の中に、ちょっと気になる記述を見つけました。
輝子の娘あずさは看護師ですが、彼女が言うには老人性痴呆症の一形態である失語症には2種類あるそうです。
運動性失語症と感覚性失語症です。

感覚性失語症は、ことばの意味を把握する能力が失われるため、一方的な取り止めのないお喋りに終始するという症状が現れます。
一方、運動性失語症はことばの意味は理解できても、語るべきことばを失っています。
ほとんどのことばを忘れてしまい、最後は壮年期によく使っていた3つくらいのことばしか残らなくなるそうです。

当時、あずさが勤務する病院の患者には、仕事一筋で生きてきた明治生まれの男たちが大勢いました。
多くの場合、その男たちの発する3つのことばとは、自分の名前と「オイ」と「バカモン」だったそうです。
人生の最期を締めくくることばがこれでは、死んでも浮かばれませんよね。

確かに、日本の偉人や英傑たちの「最期のことば」にも、壮年期の生き方がそのまま反映されているようです。
大事なのは、壮年期なのですね。

あっ、しまった!

壮年期をとっくに過ぎていることに、今気がつきました。

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