株式会社ファイブスターズ アカデミー
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科学史におけるニュートンの功績と言えば、何と言っても「微分積分法」と「万有引力」の発見ですが、彼がこの研究を完成させたのは、なんと24歳の時。
ペストの大流行によりケンブリッジ大学が一時閉鎖されたため、やむなく故郷の田舎町ウールスソープに戻っていたわずか2年余りのうちに、彼はこの世紀の大発見をすべて完了してしまいます。
ところが、なぜかニュートンはこの発見を論文として発表することはしませんでした。
世紀の大発見を発表しないなんて、「落体の法則」の時のガリレオと同じですよね。
事実、ニュートンは、「私は巨人たちの肩の上に乗って、ほんの少し先を見通せただけなのです」と言っています。
これは、ニュートンの謙虚さを表すエピソードとして語り継がれてきましたが、近年の研究では「肩に乗る」という文句は当時の流行語大賞みたいなもので、単なる軽口の類いだったのではないかとも言われています。
そもそも、「万有引力の法則」が世に出るようになったのは、1684年に英国王立協会で3人の有名な科学者が議論を戦わせたことがきっかけでした。
「引力の逆2乗」とは、2015年4月のブログ『万有引力』でも触れましたが、後にニュートンが発表する「引力は、二つの物体間の距離の2乗に反比例する」という法則のことです。
結論が得られず、もやもやした気持ちのまま帰ったそのうちの一人がニュートンの元を訪ねます。
その結果出版されたのが、あの有名な『プリンキピア(自然哲学の数学的原理)』なのです。
その科学者こそ、今も「ハレー彗星」に名を残すエドモンド・ハレーです。
ところで、ハレーとの運命的な出会いを果たすまで、ニュートンは一体何をしていたのでしょう?
当時の光学研究における最大のテーマは、光は「粒」なのか、あるいは「波」なのかという問題でした。
しかし、この論文には致命的な間違いがありました。
この重鎮中の重鎮にコテンパンにやっつけられた怨みが、ニュートンの心に深く刻み込まれます。
ちなみに、この論争に決着をつけたのはアインシュタインです。
そうです。
さて、話を元に戻しましょう。
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