株式会社ファイブスターズ アカデミー
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グリニッジ・ビレッジにあるジャズクラブ「カフェ・ボヘミア」にいた客は、突如ステージに上がってきた大男を見て驚きます。
なにせ、ついさっきフロリダからアムトラックに乗ってニューヨークに着いたばかりの無名のアルト・サックス奏者が、
迎え撃つホレス・シルヴァーや、ケニー・クラークといった錚々たるメンバーの中には、この田舎者を一丁揉んでやろうと意地悪な薄ら笑いを浮かべる者さえいました。
ところが、ソロの順番がその飛び入りに回った瞬間に、満員の客は言葉を失います。
ステージ上の誰よりも流暢なプレイをするではありませんか。
しばらくすると、今度は場内がざわめき始めました。
もしかしたらこの男は、3ヶ月前にこの世を去った、チャーリー・パーカーの生まれ変わりではないのか。
新しい神話が生まれようとしていたちょうどその頃、入り口近くのバーでは、同じように飛び入りを目論んでいた2人の男が、そそくさと自身のアルト・サックスをケースに仕舞いこんでいました。
以下はマクリーンの回想。
「ビックリした。
とんでもないヤツが出てきたものだと思った。
俺たちより遥かにテクニックが上だった。
こうして、1955年最大のシンデレラ・ストーリーが始まったのでした。
ところが、ここから微妙に歯車が狂い始めます。
キャノンボールは悩みますが、受けない理由は実に簡単なことでした。
ちなみに「ファンキー」というスラングは、泥まみれの労働で疲れた、黒人の汗の匂いに関係する表現なのだそうです。
それが転じて、過酷な肉体労働の疲れを吹き飛ばしてくれる、ノリのよいミュージックを形容する言葉になったようです。
そもそもキャノンボールは、パーカーの影響を受けていませんでした。
驚くべきことに、リバーサイドへの移籍第一弾となる『ポートレイト・オブ・キャノンボール』をプロデュースしたオリン・キープニュースは、
「キャノンボールはデビューするまでパーカーの演奏を聴いたことがなかった」と、そのライナーノーツに記しています。
俄には信じられない話ですが、いずれにせよキャノンボールは追い詰められていきました。
しかし、人間万事塞翁が馬。
新たに参加したマイルス・デイヴィスのグループで、ジャズ・アルバムの永遠のベストセラーと言われる『サムシン・エルス』など、数々の歴史的名盤にその名を連ねることとなります。
ちなみに「サムシン・エルス」とは、「途方もなく素晴らしい」という意味の当時の流行語だそうです。
この化学反応が、キャノンボールに更なる進化をもたらしました。
59年10月、サンフランシスコの「ジャズ・ワークショップ」での4週間にわたるライヴの最後を飾る曲『ハイ・フライ』が終わった時、観客のスタンディング・オヴェイションは15分間にも及んだそうです。
実弟でコルネット奏者のナット・アダレイも、「これ以上に楽しかった仕事は一度もない」と口を揃えました。
やがてオーストリア出身のピアニスト、ジョー・ザヴィヌルをメンバ ーに加えると、一層の飛躍の時が訪れます。
このアルバムにおける、ザヴィヌルのエレクトリック・ピアノからインスピレーションを得たのが、マイルスでした。
衝撃のデビュー以来、まさに“砲弾”のようにスターダムに駆け上がったキャノンボール・アダレイ。
でも、彼のことを語る時、誰もが口にする言葉があります。
その人間的魅力が、磁石のように多くのミュージシャンを惹きつけるのです。
これもキャノンボールの人徳のなせる業か。
ライヴでは、一曲毎に長々とその説明をするのも、律義な性格の表れなのでしょう。
彼からアルト・サックスのマウスピースをプレゼントされた、グローヴァー・ワシントンJrはこう述懐します。
「彼は音楽にヒューマンなものを持ち込んだんだ。
キャノンボールほどヒューマンな音楽家はいなかった」
どうやら彼に成功をもたらした要因は、豪快でストレートなプレイだけではなかったようです。
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