「ブラック・コーズ」と大書された黒板。
ガランとした教室の中に、正装した黒人の少年が一人ポツンと机に座っています。
教師はいませんが、その代わり教壇にはトランペットが置かれています。
ウィントン・マルサリスのアルバム『ブラック・コーズ』の、なんとも意味深なジャケットです。
「ブラック・コーズ」とは「黒人法」のこと。
別名「奴隷取り締まり法」とも言われました。
黒人を奴隷という身分に縛り付けた、悪名高き法律です。
ウィントン・マルサリスが通ったカトリック系の小学校では、黒人は二人しかいませんでした。
成績トップはいつも白人の少年でしたが、ある日ウィントンは教師がうっかり置き忘れた自身の答案用紙を目にします。
そこには、トップの子より高い点数が書かれているではありませんか。
「黒人は、どんなに努力しても一番にはなれない」
それが、彼が学校で最初に学んだ法律でした。
ウィントンは、ニューオリンズの中でも治安の悪い地域で育ちます。
向かいの家の親父は自分の娘を妊娠させ、数軒先の家では飲んだくれの親父をその女房が殺害し、もう少し先の家では8人兄弟のうち7人までが殺されます。
そして仲間は、みんないつしかドラッグの売人に・・・。
そんな環境にありながらも、父親のエリス・マルサリスは音楽一家を築きました。
長男のブランフォードはサックス、次男のウィントンはトランペット、四男デルフィーヨはトロンボーン、六男ジェイソンはドラムス。
後に全員が一堂に会してコンサートを開きますが、父親冥利に尽きるとはこのことでしょう。
ただ、楽器のできない兄弟が口笛や詩の朗読で参加しているのは、いささか邪道という気がしないでもありません。
でも、かつてはアレン・ギンズバーグだってジャズをバックに詩の朗読をしていたわけですから、ここはひとつ大目に見るとしましょう。
6人中4人がプロになれたのは、レストランやクラブで演奏はしていたものの、ジャズ・ピアニストとして生計を立てることができなかった父親の執念なのかもしれません。
その執念が最初に実を結んだのは、79年の秋でした。
ニューヨークのアップタウンにあるジャズ・クラブ「ミッケルズ」に足を運んだウィントンには、ある企みがありました。
それはシット・イン、すなわち飛び入りで演奏することです。
アフロヘアーに安物のウィンドブレイカー、そしてボロボロのテニスシューズを履いた若者のシット・インの許可を取るべく、ジャズ・メッセンジャーズのピアニスト、ジェームス・ウィリアムスはアート・ブレイキーの元へ。
ところが、意外にもあっさりOKが出ます。
「あのエリス・マルサリスの息子だって?ああ、俺はかまわんよ」
ウィリアムスもブレイキーも、かつてニューオリンズに滞在していた時に、エリスと知己を得ていたのです。
それを聞いたウィントンは脱兎の如くクラブを飛び出し、一目散にアパートへとトランペットを取りに走ったのでした。
なぜ、シット・インを目論んでいたはずの男が、手ぶらで来ていたのでしょう?
それは、そもそも本気でジャズ・ミュージシャンになろうと思っていなかったからですが、そのことが明らかになるのはもう少し後のことです。
82年1月にデビュー・アルバム『ウィントン・マルサリスの肖像』がリリースされるや否や、全米のジャズファンは熱狂しました。
「新時代のマイルス・デイヴィス」、「クリフォード・ブラウンの再来」といった最上級の賛辞が惜しみなく贈られます。
彼の奏でるサウンドは、あの懐かしいメインストリーム・ジャズそのものでした。
モダン・ジャズにとって重要な出来事はすべて、50年代後半から60年代前半に起こります。
ウィントンの演奏は、エレクトリックという忌まわしいウィルスに汚染される前の、あのアコースティック・ジャズの黄金期を彷彿とさせるものでした。
しかし、ジャズファンが待ちに待った2作目は予想だにしないものでした。
『トランペット協奏曲』。
なんとハイドン、モーツァルト、ヴィヴァルディらがトランペッターのために書いたコンチェルトを、超絶技巧を駆使して歌い上げたのです。
アコースティック・ジャズの復活を期待していたファンにとってはこれ以上ない裏切り行為ですが、今少し冷静になって耳を済ませば、すべての曲がジャズ以上にスリリングな展開であることに気づいたはずです。
ウィントンの心には、あの小学校で白人の生徒から投げかけられた一言が、棘のように刺さっていました。
「黒人は、クラシックのトランペッターになれない」
これこそが、『ブラック・コーズ』のジャケットの謎解きです。
ついに実力でそのタブーを破った男は、ジャズとクラシックの二刀流で大活躍し、両部門で合計9つのグラミー賞を獲得するという離れ業までやってのけます。
ウィントン・マルサリスは、実に不思議なミュージシャンです。
その豊かな感性と圧倒的なテクニックで、時にジャズの範疇を遥かに超越しながらも、常にモダン・ジャズに回帰します。
シリーズとなった『スタンダード・タイム』は、まさにその名の通りジャズの“標準時”。
シリーズ第一作目に収録された『キャラヴァン』のテーマの、その最初の一音を聴いたジャズファンは瞬時に了解したのです。
手垢にまみれたスタンダード曲だって、こんな風に解釈すれば鮮やかに蘇るのだと。
さらには、あのモンクさえ実に分かりやすく「リモデル」してしまいます。
また、エルビン・ジョーンズとともに新宿の「ピット・イン」で『至上の愛』を演奏した時、そこにいたのは間違いなくテナー・サックスをトランペットに持ち換えたジョン・コルトレーンでした。
巨人の霊が憑依したかのような鬼気迫る演奏に、日本の“ジャズ喫茶で育った”メインストリーム・ジャズファンたちは狂喜し、そしてウィントンを崇め奉ったのです。
しかし、またも教祖の背信行為が起こります。
なんと、あろうことかクリスマス・ソングのアルバムをリリースしたのです。
信者たちが最も忌み嫌うのは「商業主義」。
クリスマスはカトリックにとっては宗教的儀式ですが、日本人にとっては商業的イベントにすぎません。
これを契機に、日本でも「ウィントン・マルサリスはジャズを殺した」という噂が囁かれ始めます。
この時代、彼が演奏しない限り、聴くに値するメインストリーム・ジャズはどこにも存在していなかったのです。
まさに「ジャズは死んだ」のです。
ところが、ウィントンはすでにその仮説に対する反論を済ませていました。
89年に発表した、『ザ・マジェスティ・オブ・ザ・ブルース』に収められた『ニューオリンズ・ファンクション』という組曲こそ彼の答えです。
《デス・オブ・ジャズ》、《早すぎた検死》、《オン・ザ・サード・デイ》という3部構成は、おそらくキリストの磔刑と3日目の復活を捩ったものでしょう。
「ジャズは死んだ」という仮説は、「早すぎた検死」結果にすぎず、今まさにジャズは復活しようとしている。
特に《早すぎた検死》は、長い詩の朗読から成る風変わりな章ですが、こんなことが語られています。
「あれはアメリカの芸術の霊的動力だった。
それこそが民主主義だった。
(略)
音楽は死んだ、と言われる度にデュークは、民主主義を意味する音楽を書き、演奏した。
それは、奴隷が見知らぬ土地で最初に歌を歌った時に出来た、芸術的言語だった」
差別がなくならない限り、ジャズは決して死なない。
ウィントンは私たちに、改めてデューク・エリントンの教えを思い出させてくれました。
もしかしたら、ジャズを葬り去ったのは私たちの方かもしれません。