株式会社ファイブスターズ アカデミー

まずはお気軽に
お問い合わせください。

03-6812-9618

5☆s 講師ブログ

人生の二つの扉

はっきり言って、これは誤訳だと思うのです。

キース・ジャレットが21歳の時リリースした初のリーダーアルバム、“ Life Between The Exit Signs” の邦題のことです。

正しくは『人生の二つの扉』ではなく、『出口標識間の人生』と訳されるべきです。

そもそもジャケットには、背中合わせに立つ二人のキースの頭上に、それぞれの出口を指差している標識が二つ写っているのですから。
ただ、この題名でアルバムが売れたかどうかはわかりませんが・・・。

「二つの出口」の意味するところは、そのメンバー構成から推し量ることができます。

ベースはオーネット・コールマン派のチャーリー・ヘイデン。
片やドラムスはビル・エバンス派のポール・モチアン。
キースのピアノは一曲毎に、フリー・ジャズとメインストリーム・ジャズの二つの出口の間を振り子のように揺れ動きます。

3歳でクラシックピアノのレッスンを始め、5歳でテレビのタレントスカウト番組で上位入賞。

6歳で地元の教会が主催するチャリティー・コンサートに出演し、7歳で有料のリサイタルを開いたという神童が、その敷かれたレールから逸脱したのは19歳の時。
名門のバークレイ音楽院をわずか1年で中退してしまいます。

ニューヨーク「ビレッジ・ヴァンガード」の月曜ジャム・セッションで、知り合いのテナー奏者に誘われるままピアノを弾いたとき、カウンターでその演奏を聴いていたのがアート・ブレイキーでした。

しかし、当時のジャズ・メッセンジャーズはひどい低迷期。
その待遇の悪さに嫌気が差し、たった4カ月で飛び出してチャールズ・ロイドのグループに参加した頃から頭角を現します。

しかし、彼のジャズピアノの基礎はビル・エバンスではありません。

ペンシルベニア州デラウェア・ウォーター・ギャップの山間にあるジャズクラブ「ディア・ヘッド・イン」に出入りしていた10代の頃に目の当たりにした、ジョン・コーツです。

コーツは、後にキースがビッグネームになった時、「瓜二つの演奏をする」と話題になったピアニストですが、種明かしをするとキースがコーツのスタイルを模倣しただけの話です。

でも、キースがこれほど有名になってしまうと、誰もそれを「盗用」と呼ばなくなるから不思議です。

若い頃は二つしかなかった「出口標識」は、年を重ねるごとに増えていきます。

テナー・サックスのデューイ・レッドマンを加えたアメリカン・カルテットの最高傑作“Death And The Flower”では、日本の「禅」を彷彿とさせる宗教的な死生観までをも提示してみせました。

このアルバムの邦題は『生と死の幻想』。

今度は大成功です。
この題名は、キース自身が書いたこんな詩の一節を参考にして意訳したものだそうです。

「私達は生(誕生)と死の間を生きている。あるいはそのように自分自身を納得させている。

本当は自らの生の絶え間のない瞬間に、生まれつつあると同時に、死につつあるのだ。
私達はもっと花のようにつとめるべきである。
彼らにとっては毎日が生の体験であり、死の体験でもあるから。
それだけに私達は花のように生きるための、覚悟を持たなければならないだろう。
死を友とし、忠告者として考えよう。
彼らは私達を生に目覚めさせ、また晴れやかに花を咲かす」

なんか、哲学してますよね。

どうやら今度は、「生」と「死」の間の人生を歩んでいるようです。

そんなキースが転機を迎えたのは1983年。

それまでのアヴァンギャルドな演奏とは打って変わり、突如としてスタンダード・ジャズを目指します。

「お変わりありませんか?」と挨拶を交わす日本では、ピアノトリオによるスタンダード・ジャズが人気なのは頷けます。
でも、”What’s new?”が文化のアメリカでは、手垢にまみれた過去のジャズを演奏することはほとんど自殺行為です。

キースは、なぜこんな無謀な試みをしたのでしょう。

きっかけはハービー・ハンコックのV.S.O.P.の成功によって俄かに脚光を浴び始めた、アコースティック・ジャズに対する懸念だったのではないかと思われます。

特に、ウィントン・マルサリスの「ブルースは黒人にしか演奏できない」という発言には真向から反論します。

曰く「ウィントンが優れたブルースを演奏しているとは思えない」。
キースの『スタンダーズ』の発表に触発されたマルサリスが、『スタンダード・タイム』をリリースしたのはその3年後。

この二人が、現代のメインストリーム・ジャズの道筋を作ったと言っても過言ではないでしょう。

ただ、彼らにとってメインストリーム・ジャズというものが、クラシックも含めて数ある「出口標識」の、ワン・ノブ・ゼムにしか過ぎないのが少々気になるところではありますが・・・。

しかもキースの場合は、即興のピアノソロの方がメイン出口になってしまった感さえあります。

ただソロというのは、とてつもない集中力を要します。

1996年ツアー先のイタリアで、極度の疲労感に襲われ静養に追い込まれたキースの診断名は「慢性疲労症候群」。

そしてそこには、妥協を許さない彼の完璧主義も色濃く影を落としていました。

2014年の大阪で、度重なる無遠慮な観客の咳に業を煮やし、何度か演奏を中断した挙句にコンサートを途中で切り上げてしまいます。

キースほど厳格な姿勢で、演奏と向き合うミュージシャンは他にいません。

整形外科医でジャズ・ジャーナリストの小川隆夫の証言があります。

小川は、ニューヨークの「エイヴリー・フッシャー・ホール」での演奏を終えてホテルに戻ったキースが、ロビーでひどく落ち込んでいるのを目撃します。

「ミス・タッチは仕方ないとしても、表現したいことが完璧にできないもどかしさにがっかりした。

これまでの努力をコンサートで実らせられない情けなさに気持ちが萎えている」

ところが小川によれば、ゲーリー・ピーコック(ベース)、ジャック・ディジョネット(ドラムス)という、『スタンダーズ』でお馴染みの名手を従えたトリオ演奏はこの日も絶好調で、ソールド・アウトの客席はスタンディング・オヴェイションに包まれ、キースも3回のアンコールに応じていたのです。

しかし、キースの見解は全く異なるものでした。

「アンコールの拍手ほど嬉しいものはない。

しかしそれが正しい評価とは限らない。
コンサート・マジックというか、人々に拍手させる力には演奏とは無関係な要素もある」

その後深夜に近いマンハッタンに繰り出し、辺りが明るくなりかけた頃ホテルに戻った小川が目にしたのは、なおもロビーで沈思黙考しているキースの姿でした。

そもそも、キースはなぜ“Doors”ではなく、“Exit Signs”という表現を用いたのでしょうか。

「出口標識」があるということはすなわち、今いる場所が屋内であることを意味します。
彼は、この言葉で「閉じ込められている」状態を伝えたかったのではないでしょうか。

そして、その閉じ込められている部屋とは、もしかしたら「実験室」なのかもしれません。
なぜならキースの即興演奏は、コンサートというよりもワークショップそのものだからです。

うーん、やっぱり芸術は「出口なし」ということなのでしょうか。

初めての方へ研修を探す講師紹介よくある質問会社案内お知らせお問い合わせサイトのご利用について個人情報保護方針

© FiveStars Academy Co., Ltd. All right reserved.