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5☆s 講師ブログ

遅刻がきっかけで(2)

佐久間象山は、日本で初めて電池を作った人物です。
1850年(嘉永7年)、ペリーは横浜村で日米和親条約を結ぶに際し、幕府に寄贈したモールス電信機のデモンストレーションを行いました。
その時、象山もその場に居合わせていたのです。

日本が鎖国している間に、世界の文明は遥か先に進んでしまっていました。

しかし、それは絶対に埋められない距離ではありません。
その証拠に、この電信機の電源となっていた「液体電池」なるものを、象山は自作してみせたのです。

石黒から西洋の発明品の素晴らしさを伝え聞いた先蔵は一念発起し、昼は叔父の工場に勤めながら夜は決して遅れない時計の開発に没頭します。

睡眠時間3時間という壮絶な日々を乗り越え、ついに先蔵は「液体電池」で正確に動く「連続電気時計」を完成させます。
これがあれば、ラジオや時報がなくても正しい時刻がわかるはず。

しかし、問題は「液体電池」にありました。

この電池には電解液の補充が必要な上、冬場には液体が凍ってしまって使えないという致命的な欠点があったのです。
要するにどんなに正確な時計を開発したところで、「液体電池」を電源としている限り実用に向かないのです。

時計だけではありません。
「液体電池」を電源とする通信機などすべての電気機器が、寒冷地では全く役に立たないのです。

ところが、不眠不休で研究に没頭する先蔵の執念は岩をも貫きます。

なんと今度は、過酸化マンガンを使った「乾電池」を完成させたのです。
これさえあれば、どんな寒冷地でも大丈夫。

しかもこの世紀の大発明は、世界に知られるチャンスにも恵まれました。

先蔵の相談相手でもあった帝国大学(現在の東京大学)教授の田中館愛橘が、1893年(明治26年)のシカゴ万博に出品した地震計の電源として、この「乾電池」を採用したのです。

ついに先蔵の「乾電池」は、世界の檜舞台に立ったのです。

先蔵は天にも昇る幸せを感じますが、まさかこの出品が裏目に出るとは夢にも思っていませんでした。

その年の暮れ、アメリカから「ドライ・バッテリー」という、その名称までも完璧に模倣した商品が輸入されたのです。

なんと今度は世界が、日本の技術の模倣を始めたのです。

すでに特許登録が認められていた先蔵は、勢い込んで特許局に駆け込みます。

しかし、職員の言うことには、この特許はあくまで日本国内のものとのこと。
アメリカに申請するには、別に多額の出願料が必要となります。
国内の特許申請でさえ、妻いさが内職の仕立てで稼いだお金と、その納め先から前借りしたお金を併せてなんとか実現できたものです。

もはや、先蔵にはどうすることもできませんでした。

ところが、特許は大した問題ではありませんでした。

最大の問題は、時代が追いついていないことでした。
銀座2丁目に、デモンストレーションとしてアーク灯が点灯されたのは、シカゴ万博から遡ることわずか11年前。

一般家庭に電灯が点るようになるまでには、昭和の初めまで待たなければなりません。

つまり、そもそもこの時代には、「乾電池」を使うような電気機器が普及していなかったのです。
せっかく西洋の技術に追いつき、そして追い抜いたというのに・・・。

勇んで設立した「屋井乾電池」も開店休業状態となり、いさは質屋通いの日々を送ります。

しかし、追い詰められた先蔵にも、ようやく女神が微笑む時が訪れます。

1895年(明治28年)日清戦争が勃発すると、突如陸軍から大量の注文が入ります。

翌年の1月12日、「乃木希典少将、満州海城を攻略す」の大見出が踊る号外を手にした先蔵の目は、その後に続く文字に釘付けとなりました。

「厳冬の戦地で大活躍!世界一の“屋井乾電池”極寒の地でも氷結せず」

先蔵は喜びのあまり、手の震えを抑えることができませんでした。
「乾電池」が世に認められた瞬間です。
この時先蔵は陸軍から得た利益のすべてをつぎ込んで、石黒や田中館を始めお世話になった人々を招き盛大な謝恩会を催します。
一つの発明の陰に、どれだけ多くの人々の支えがあったことか。

後に「乾電池王」と呼ばれた先蔵でしたが、その死後は急速に会社が傾いてしまいます。

代わって、乾電池事業を拡大していったのが松下幸之助。

そして日露戦争が勃発すると、今度は島津製作所の島津源蔵が開発した充電のできる電池、すなわち「蓄電池」が大活躍しバルチック艦隊撃破に貢献します。

1905年(明治38年)5月27日未明、連合艦隊の哨戒艦・信濃丸が三六式無線電信機で打電した「敵艦隊見ユ」の電文は、この蓄電池なくして東郷司令長官の乗る旗艦・三笠には届かなかったのです。
後の「GSバッテリー」は、島津源蔵の頭文字からとったブランド名です。

佐久間象山から脈々と続く、電池に関する先人たちの執念とも言うべき研究心。

それが、現在私たちが時計代わりに使っているスマホに繋がっているのです。

もし、あの時先蔵が入学試験に遅刻していなかったら、という仮定はあまり意味がありません。

誰かが不便さを感じたら、そこには必ず新しい発明が生まれるものなのです。

重要なことは、先蔵が失意のどん底にあってもなお、必死で立ち上がろうとしたことです。

失意をもたらした、原因そのものを解決しようとしたことです。
その不屈の精神こそ、「ものづくり立国ニッポン」の真髄なのではないでしょうか。

ただこれからは素晴らしい発明というものは、戦時ではなく平和な世の中でこそ脚光を浴びる時代であってほしいと心から願います。

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