株式会社ファイブスターズ アカデミー
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しかし、もとから有名だったわけではありません。
転機となったのは創業から100年近く経ち、創業者一族に連なるイアン・ハンターが社長に就任した1908年。
その積極策がようやく軌道に乗り始めた矢先、ハンターの右腕とも言うべき秘書のカーマイケル夫人が病に倒れます。
このパートタイマーこそ、後に「ラフロイグ中興の祖」と言われたエリザベス(ベッシー)・ウィリアムソンその人でした。
でもベッシーは、もともとウィスキー造りに興味があった訳ではありません。
どこの国でも、似たような時代はあるものですね。
パートの仕事であっても、全力で取り組むその姿勢を誰よりも高く評価したのは、“No half measures”(中途半端は許さない)が口癖だったハンターでした。
ベッシーの熱意と才能を見込んだハンターは、このパートタイマーにウィスキー造りのあらゆるノウハウを伝授します。
ベテランの職人たちは、一体どんな思いでそれを眺めていたことでしょう。
しかも『ラフロイグ』は、「消毒液のような」と評され、禁酒法時代には実際に「医薬品」としてアメリカに輸出されたほどの“超男性的”な味わいのウィスキー。
早い話が、『正露丸』をアルコールで溶いたような味と言えばわかりやすいでしょうか。
ところが、ベッシーの並みはずれた熱意と様々な創意工夫の前に、職人たちも帽子を脱がざるを得ません。
さらには、生涯独身で子供もいなかったハンターが亡くなると、その遺言状には「経営権はベッシーに譲渡する」と明記されていたのでした。
ベッシーにとって、ウィスキー造りが本当にやりたい仕事だったかどうかはわかりません。
わずか3カ月間の勤務のはずだったベッシーは、結局半世紀もの長い歳月をアイラ島で過ごすことになります。
今、私たちが口にする『ラフロイグ』も、天国のベッシーに見守られて造られた酒なのです。
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