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5☆s 講師ブログ

ピアノという名のリリシズム

「ミスター・バッジ、20ドル貸してくれませんか?」

熱烈なジャズファンで、1938年に史上初のグランドスラムを達成した伝説のテニスプレーヤーであるドン・バッジが、
「ヴィレッジ・ヴァンガード」でビル・エヴァンスに挨拶した時のエヴァンスの返事です。

それがへロインを買うための金であることは、ドンにもわかっていました。
「これで足りるかい?」と20ドルを渡しながら、心の中で思います。

「なんてことだ。悲しすぎる。
ビルが弾く、あの、世にも美しい『ア・チャイルド・イズ・ボーン』がドラッグから生まれただって?」

髪をきっちり七三に分け黒ブチの眼鏡をかけた、
一見エリート銀行マンのような風貌のジャズピアニストが、実は筋金入りのジャンキーだったとは・・・。

アルバムのポートレートがすべて引き締まった表情だったのは、笑うとボロボロの歯が見えてしまうからでした。

ビル・エヴァンスは、ジャズ史に大きな変革をもたらした偉大なピアニストです。

彼が出現するまでは、ピアノトリオなんて箸休めでしかありませんでした。

ジャズクラブの演奏というのは、あくまでトランペットやサックスを加えたグループがメインで、
彼らが休憩をとる幕間に、客が軽い食事をとったり、おしゃべりしたりする時のBGMがピアノトリオだったのです。

ところが、ビル・エヴァンス以降は、ピアノトリオだけでビジネスが成立するようになります。

ガラス細工を絶妙なバランスで組み上げたような、美しく繊細な珠玉のメロディーラインは、まさに“ピアノという名のリリシズム”。
しかしそこには、隠しようもないほどはっきりと、甘美な「死」の匂いが漂っていました。

同時にその演奏は、若き天才ベーシスト、スコット・ラファロとの出会いによってもたらされた化学反応の賜物でもありました。

ラファロに関するMJQのべーシスト、パーシー・ヒースの証言があります。

ある日、ホテルの廊下を歩いていた時、ものすごいテクニックでベースを練習する音が聞こえてきました。
すぐに部屋のドアを叩き、急いで自己紹介するとこう尋ねます。
「そんなに弾けるのに、どうしてギタリストにならなかったんだい?」

また、こんな目撃談も残されています。

「ブラックホーク」で彼がベースソロを弾いていた時、店のレジ横にある電話が鳴り出しました。
すると、その呼び出し音と掛け合いのインター・プレイをやってのけたというのです。

1961年6月25日の日曜日、「ヴィレッジ・ヴァンガード」で録音されたジャズ史に残るライヴは、
まるでドラムスのポール・モチアンひとりがリズムセクションを務める、双頭コンボであるかのような印象さえ抱かせます。

しかし、この代表作『ワルツ・フォー・デビー』が世の注目を集めたのには、
その心に染み入るような演奏もさることながら、とても不幸な出来事が関係しています。
録音の11日後、ラファロの運転するクライスラーが、ルート20の道端にあった大木に激突してしまったのです。

享年25。
かつて50歳で亡くなった父親の葬儀の席で、
「僕は25歳で死ぬような気がするんだ」と呟いた天才の予言は、不幸にも的中してしまいました。

途方に暮れるエヴァンスを支えたのは、その年に知り合ったエレインでした。

しかし、この夫唱婦随は間違った形で表れます。
この内縁の妻もまた、夫同様ひどく麻薬に溺れたのです。

二人分の麻薬代を稼ぐため、エヴァンスは休む間もなく世界中を飛び回りますが、
ツアー先のロサンゼルスのジャズクラブで、ネネットという若いウェイトレスと運命的な出会いをしてしまいます。

エヴァンスは、それが“誠意”だと思ったのでしょう、10年間連れ添ったエレインに正直に心情を打ち明けました。

最初彼女は、冷静に受け止めているように見えたそうです。
しかしその直後、エヴァンスがツアーのためにニューヨークを離れるや否や、地下鉄に身を投じてしまいます。

その後ネネットと正式な結婚をしますが、彼の指は倍くらいの太さに膨れ上がり、
隣の鍵盤を叩いてしまうこともしばしば。

長年に渡る麻薬の影響で、肝臓が限界に達していたのです。
しかし、“その時”が訪れるまで、頑として病院に行くことを拒み続けました。

例えるならばビル・エヴァンスは、静寂が支配する真っ青な湖に浮かぶ一羽の白鳥です。

人々はその美しく優雅な姿に酔いしれますが、白鳥は水面下では醜く足を掻き、必死にもがき苦しんでいたのです。

そしてある日、不意に白鳥が飛び立ってしまうと、
水辺に遺された私たちに出来ることと言えば、麻薬を憎むことだけでした。

でも、どうしてもわからないことがひとつあります。

エヴァンスは、若い頃にプラトン、カント、ヴィトゲンシュタイン、ヴォルテールらの哲学書を読破しました。

さらに日本の「禅」に関心を持ち、マンハッタンの図書館にあった関連書物を片っ端から読み漁ったりもしました。

マイルスが、あの名作『カインド・オブ・ブルー』のライナー・ノーツを彼に書かせたのは、そんな背景があったからでしょう。

そこまで厳格に自分と対峙したはずのエヴァンスが、なぜあんなにも深く麻薬に溺れてしまったのでしょうか。

彼が麻薬を覚えたのは、兵役に就いていた時と言われています。

また、極端な白人嫌いで知られるマイルスのグループに、白人として初めて抜擢されたことが、
大きなプレッシャーになっていたと指摘する人もいます。

もしこの二つが原因だったとするなら、エヴァンスは戦争と人種差別の犠牲者だったと言えるのかもしれませんね。

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