株式会社ファイブスターズ アカデミー
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「俺のソロのバックでピアノを弾くな!」
やっとのことでヘロイン中毒から立ち直り、
精力的にレコーディングをこなしていたマイルス・デイヴィスの嗄れ声が響き渡ると、
スタジオ内の空気が凍り付きました。
マイルスの視線の先にいたのは、モダン・ジャズ史上最も難解なピアニスト、セロニアス・モンク。
「モンクの演奏スタイルやモンクが書いたオリジナル曲は好きだった。
この超個性的な演奏をするピアニストを最初に見い出し、
自分のグループにレギュラーメンバーとして迎い入れたコールマン・ホーキンスでさえ、当時をこう述懐します。
「毎晩自分に問いかけたものだよ。
初めてモンクのピアノを聴いた人は、間違いなくこう思うはずです。
はっきり言って、その不協和音のオンパレードに耐えるのは、なかなかの苦痛です。
モンクがこのユニーク極まりない演奏スタイルを身につけたのは、
ハーレムの7番街にあった「ミントンズ・プレイハウス」。
客足が伸びないことに悩んだオーナーが思いついたのは、飛び入り自由というジャム・セッションでした。
そこで、未熟者をステージに寄せ付けないために、モンクやソニー・クラーク、チャーリー・クリスチャンらは、
わざと入り組んだ複雑なリズムや、意表を突くコードを多用して目眩ましをかけたのです。
その最先端に身を置き、ギャラには全くなびかず、
音楽的な一切の妥協を拒みひたすらオリジナリティを追求していたモンクは、
その当然の報いとして長く“食えない”時代を過ごすことになります。
それでも1945年1月、フィラデルフィアでマックス・ローチと盛大なコンサートを成功させました。
その時です。
「お前たちは世界でいちばん偉大なピアニストを虐待している」
こうして、モンクの無二の親友であり、後にビ・バップを代表するピアニストとなるバド・パウエルが、
その後不吉な頭痛を訴え続ける原因が作られたのです。
もし、この時バドが殴られなければ・・・という仮定はあまり意味がありません。
これが当時の、黒人を取り巻く環境でした。
マイルスとのセッションの後、モンクに再びスポットライトが当たるには、1957年まで待たなければなりません。
時代がついに、難解な書物を紐解く手掛かりを見つけたのです。
この年の春、麻薬が原因でマイルス・デイヴィスのグループを解雇され、失意のどん底にいたジョン・コルトレーンに誘いの手を差し伸べたことは、
コルトレーンにとっても、またモダン・ジャズの歴史にとっても非常に重要なターニング・ポイントとなりました。
しかし、絶頂期というのは長続きしないもの。
翌年の秋、パノニカや、テナー・サックス奏者のチャーリー・ラウズらが同乗した車で立ち寄ったデラウェアのモーテルで、決定的な事件が起きてしまいます。
モンクはそこで一杯の水をもらおうとしただけなのですが、
突然現れた黒人の大男に驚いたオーナーが警官を呼んでしまいます。
車に戻ったモンクはハンドルにしがみつき、このような扱いを受ける謂われはないと必死の抵抗を試みますが、
やがて車から引っ張り出され、殴られ、両手をひどく叩かれました。
幸いなことに、その持ち主がモンクであると立証できなかったため、薬物の不法所持には問われませんでしたが、
その代わりにニューヨーク市のキャバレーカードを取り上げられてしまいます。
そこでモンクのマネージャーは、人種差別的要素があったとして公聴会を開くよう要求しました。
「警官の中に、あなたのことを『ニガ-』と呼んだ者はいなかったか」
というマネージャーの誘導尋問に、あろうことか「ノー」と答えてしまったのです。
「その言葉は聞いていません。
しかし彼らの振る舞いは異様でした」
何ということでしょう!
いかなる時も、自分の内なる正義に従う“孤高の人”、セロニアス・モンク。
2年に渡る警察本部へのロビー活動の末、ようやく現場に復帰したモンクはその後ヨーロッパでブレイクします。
「ミスター・モンク、演奏に関してあなたが最も強い影響を受けた人は誰ですか?」
孤高であるということは、とてつもない孤独に耐えるだけの強い意志を持つということです。
「いつだって夜なんだ。
さもなければ光など必要あるまい」
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