株式会社ファイブスターズ アカデミー

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5☆s 講師ブログ

三つ目の山

ネットで田村翼や鈴木勲、今田勝らのCDを探していた時のことです。
ふと、最も成功した日本人ジャズ・ミュージシャンは誰だろうという疑問が湧き起こりました。

これはちょっと難しい問題です。

「成功した」の意味を「稼いだ」と捉えると、マスメディアにうまく乗った人ということになります。

テレビCMに出演しているタレントもいますが、
実力的にジャズ・ミュージシャンと呼べるのかと言われると判断に迷います。

「稼いだ」ではなく、「認められた」という意味で捉えると、これはもう穐吉敏子しかいません。

なにせ、アメリカジャズ界最高の栄誉とされる、
国際芸術基金のジャズマスターズ賞を日本人でただ一人受賞しているのですから。

満州でクラシックピアノを学んだ穐吉がジャズと出会ったのは、
敗戦により全てを失って日本に引き揚げてきてからのことです。

姉が肺浸潤を病んでいたため、一家はサナトリウムのある別府に住むことになります。

町をブラブラ歩いていた彼女は、ダンスホールの「ピアニスト求む」の張り紙を目にします。
「ピアニスト」の文字だけが異様に大きく見えて、気づいたときにはもう雇われていました。

この時まだ16歳。

もちろん食べるためということもありましたが、それよりピアノを弾きたいという欲求の方が勝っていました。

当時は、進駐軍の利用するダンスホールが次々に出来ていましたが、ミュージシャンが圧倒的に不足していたのです。

ただ、必要だったのはクラシックのピアニストではありません。
渡された譜面には、曲名とコード記号だけしかなく、オタマジャクシがひとつもありませんでした。

適当にブンチャ、ブンチャとやってその夜は終わります。
そんなある日、休憩時間に若い男性が話しかけてきます。

「あなたはジャズ・ピアニストになる素質がある。
いつも弾いておられるあれがジャズだと思ったら大間違い、私の家に来てレコードを聞いてみませんか」

九州一になれるだけの才能があるという甘い言葉に誘われて出かけ、
テディ・ウィルソンのピアノを聞いた瞬間から人生が大きく変わります。

「一つ一つの音が同じサイズの真珠を並べたよう」な演奏に、大きなショックを受けたのでした。

練習に練習を重ね、ついに本当に九州一のピアニストになった穐吉の想いは、やがて東京へと向かいます。
上京してありついた仕事もやはり進駐軍でした。

しかし、オスカー・ピーターソンやエロール・ガーナーのレコードを擦り切れるほど聴いて採譜し、
今度はそれを夜中まで練習してマスターすることを繰り返すうち、次第にダンスミュージックでは物足りなくなっていきます。

ついに、銀行員の初任給の10倍近くもあった収入を捨てて、
渡辺貞夫らを迎えた自身のバンド、コージー・カルテットを結成します。

やっと自分のやりたいジャズを、納得いくまで追求する環境が整ったのです。

しかし、残念ながら時代の方が追いついてきませんでした。

給料制を敷いていたため、仕事は無くても支払いだけは嵩みます。
あっという間に無一文となった彼女は、質屋通いの身となってしまいました。
でも、自分で選んだ曲を演奏できるという、そのことだけで満足でした。

転機が訪れたのは1953年。

ノーマン・グランツ率いるJATPが来日します。

昼間、いつものジャズクラブで演奏していた時のことです。
休憩時間にお茶を飲もうと向かった出口で、大柄な黒人とばったり出くわしました。

よく見ると、憧れのオスカー・ピーターソンではありませんか。

紅茶を共にすることになったのですが、結局一口も飲めませんでした。

その前日に彼のコンサートを聴きに行った穐吉の頭の中では、未だにその演奏が鳴り響いていたため、
カップを持つ手が震えて受け皿にガタガタ当たってしまうのです。

その夜、改めて穐吉の演奏を聴きに来てくれたピーターソンは、
韓国に駐留していて、
たまたま日本に遊びに来ていたエド・シグペンとともにステージに上がりセッションまでしてくれました。

そして彼の推薦によって、ノーマン・グランツのレーベルからリリースしたレコード『トシコ』が、
なんと『ダウンビート』誌で三つ星を獲得したのです。

しかし本場で認められても、相変わらず仕事はありません。

日本ではもう学ぶことは何もありませんでした。
アメリカ人の友人の勧めでバークレイ音楽院に手紙を書きますが、彼女自身受かるとは思っていませんでした。
当時のアメリカ移民法は非常に厳しく、アジア人は1年に3人しか移民が認められていなかったのです。

理由は、もちろん人種差別です。

この差別がこの後長く彼女を苦しめると同時に、新しい音楽を生み出すエネルギーになるとは、この時は知る由もありませんでした。

ところが、たった一通の手紙で入学が認められただけでなく、総奨学金まで受けられることになります。
その背景には、先ほどのレコードの存在がありました。

すでにアメリカでは、「トシコ」の名前はかなり知れ渡っていたのです。

和服を着て、バド・パウエルそっくりの演奏をする“日本人のピアノ弾きの女の子”は、
物珍しさからボストンのみならず全米で話題となります。

しかしその裏では、プライドを傷つけられた男性プレイヤーから疎んじられているとも感じていました。
そこで、あくまで実力で勝負を挑むことにします。

ところが、和服を着るのをやめて、自分の曲を作ろうとしたとたんに大きな壁にぶつかります。

自分の「言葉」で即興演奏を綴ることは、とても難しい作業でした。
なぜなら、「言葉」の意味が十分理解できていなかったからです。

それが、「日本人としての言葉」であることに気づくのはもう少し後のことです。

やがて、アルト・サックス奏者のチャーリー・マリアーノと出会って結婚した頃、
ナット・ヘントフのキャンディド・レーベルからレコーディングのオファーを受けます。

アメリカに来て7年。

トシコはあることに気づいていました。

「アメリカという国は、いろいろな人種が坩堝の中に溶けているように一緒に暮らしているのだと、私は思っていた。

ところが、そうではない、大多数は人種別に自分たちの区域をつくっている」

だからこそ、

「多種多様の人種が、融合することなく創り上げているこの国で、
アメリカ唯一の文化、ジャズに携わるレコーディングのため『黄色い』プレイヤーの私は、
これからの長い険しい道を想像して、この『ロング・イエロー・ロード』という曲を書き下ろした」
のです。

この曲は、黒人でも白人でもない“イエロー”な日本人ジャズ・プレイヤーとしてのアイデンティティを示すという、決意のようなものでした。

以来、コンサートでは必ず演奏されるようになります。

一方、プライベートな道も苦難の連続でした。

娘が生まれた2年後には離婚。

差別の国で、演奏の機会を与えられないシングル・マザーの日本人ジャズ・ピアニストが、
昼の仕事を得ようと訪ねた職業紹介所で思い知らされたのは、自分が何の役にも立たない人間だということでした。

それまで、バンド部門で8回、アレンジャー部門で3回もグラミー賞候補になっていたにも関わらず、です。

この時、自分のことを「砂浜の一粒の砂よりも存在感がない」と感じていたトシコは、
ついにジャズの仕事を諦めて、手に職をつけようとコンピューター・プログラマーの養成学校に入学を申し込みます。

ところが、たまたま出かけたジャズクラブの「ファイヴ・スポット」で、予期せぬ仕事のオファーを受けます。

不思議なものですね。
諦めようとしたまさにその瞬間に、道が開けたのです。

しかし、深夜にまで及ぶハードな仕事でも、子供を育てるだけの収入は得られません。

とは言え、どうしてもこの仕事を捨てることができなかった彼女は、やむなく娘を日本にいる姉に預けることにしました。

航空会社の配慮で、離陸直前まで機内で母と共に過ごし幸せな眠りについた幼い娘は、
太平洋の上空で自分がひとりぼっちであることを知ります。
茨だらけの“長く黄色い道”を歩んでいたのは、母親だけではなかったのです。

そんなある日、テレビのニュース映像を見ていたトシコは、激しく心を揺さぶられます。

ブラウン管には、ボロボロの軍服に戦闘帽を被り、一人敬礼をしている男が映し出されていました。

戦争が終わったことを知らず、フィリピンのジャングルに30年間も潜んでいた小野田元少尉です。

異国の地で、たった一人で闘い続けたその姿に、トシコは自分自身をダブらせます。

そして、出来上がった曲の題名は『Kogun(孤軍)』。

批判を覚悟の上で「和楽」との融合を図ったこの曲は、予想に反して全米で高い評価を得ます。

やがて、再婚したルー・タバキンと結成したビッグバンドが大人気を博します。
『ダウンビート』誌で5年連続人気No1。

ついにアメリカは、黒人でも白人でもない“イエロー”な日本人ジャズ・ミュージシャンを認めたのです。

「ピアニスト求む」の張り紙を目にしてから70年。
茨だらけの黄色い道はとてつもなく長いものでした。

現在は、ジャズ・シンガーとなった娘と一緒にツアーも回ります。

彼女には、「芸術家」としての覚悟がありました。
それは、どんなに生活が困窮しても、決して仕事を請わないことです。
自分が死んだ後も、その作品が生き生きと人々の心の糧になり続けること。

これが彼女にとっての「芸術」の定義です。

素人に毛の生えたようなバンドでも、お気楽に“アーティスト”を名乗っている人達は、「芸術」をどのように定義しているのでしょうか。

今では誰もが芸術家と認めるトシコ・アキヨシですが、
仕事と自信を失っていた頃、一度だけ占いに頼ったことがあります。

姉の結婚式のため帰国していたとき、知人の勧めで京都のある偉いお坊さんを訪ねます。
今の仕事を捨てるべきかという質問をぶつけると、そのお坊さんはこう答えました。

「捨ててはいけません。

あなたは今、二つ目の山を越した下のところにいる。
しかし、私にはもう一つの山が見える。
そして、この山は今までよりもっと高く大きい山ですから、今やめてはなりません」

これほどの実力者でさえ、認められるまでには膨大な時間が必要でした。

もし今、あなたが仕事で行き詰まっているとしても、もう少し辛抱してみませんか。

もしかしたら、あなたはすでに三つ目の山の麓まで来ているのかもしれないのですから。

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