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5☆s 講師ブログ

肩書きより重いもの

中学校の理科の授業で、エンドウマメを掛け合わせる実験から遺伝の法則を発見したのは、
メンデルという人物だと教わりました。

この名前を覚えている人も多いのではないでしょうか。

科学史に残る大発見をしたメンデルですが、驚くべきことに彼は学者ではありませんでした。

いや、学者どころか学校の正式な教員にもなれず、アカデミックな肩書きとは生涯無縁の人だったのです。

一体なぜなのでしょう。

それは、彼にとっては肩書きよりもはるかに重いものがあったからです。

「生物学」は、19世紀になってようやく産声を上げた比較的新しい学問です。

それまでは「博物学」の時代でした。
博物学とは、様々なモノを集めて比較し分類する学問です。
言わば、博物館がそれ自体学問として成立していたようなものです。

この時代、仮説を立てて実験したり、その結果を統計的に処理してモデル化したりするのは、
まだ物理学や化学の分野に限定された手法でした。

ですので、当時熱心に行われていたブドウの品種改良も、偶然の結果に頼るしかなかったのです。

グレゴール・ヨハン・メンデルはオーストリア帝国の片田舎の、比較的裕福な農家に生まれます。

しかし、農園で大怪我をした父親にとっては、
息子が通う王立学校の学費や寮費は大きな負担となってのしかかりました。

ところが、父親はこの賢い息子に賭けたのでしょう、なんと農園を売り払ってお金を工面します。

そのおかげで、メンデルはめでたく大学に進学することができました。

しかし、それが限界でした。

メンデルは2年で課程を修了します。

普通は、さらに学んで学位や教員を受験する資格を取得するのですが、
これ以上親に金銭的負担をかける訳にはいかなかったのです。

この2年で卒業したという事実、すなわち学位もなく、正教員の受験資格も取得できなかったという事実が、
その後のメンデルの人生にとって重要な意味を持つことになります。

当時、学問をする場所は学校以外にもありました。

修道院です。
メンデルは神学校に進み、修道士になるための勉強に励みます。
グレゴールという名前は、その時与えられた修道名です。

彼が所属したのは聖トマス・アウグスチノ修道院でしたが、
そこでその後の人生に大きな影響を与えるナップ院長と出会います。

ナップ院長は、自然科学の得意なメンデルを、ブドウの品種改良実験に参加させます。
これが後のエンドウマメの大発見に繋がろうとは、この時の二人は夢にも思っていませんでした。

愚直で真面目な性格は、このような地道な実験にはうってつけでした。

しかし、卒業して司祭となったメンデルにとって、それは却ってマイナスに働きます。
というのは、配属された病院付きの神父として、日々患者の死に向き合うにはあまりに神経が繊細すぎたのです。

ついに心を病んでしまったメンデルに、ナップ院長はギナジウムの代用教員になることを命じます。

もともと勉強が大好きなメンデルにとって、教員の仕事は天職のようなものでした。

しかし、かつて大学を2年で卒業したため、学位も正教員の受験資格もなかった彼は、
いつまで経っても代用教員の身に甘んじるしかありませんでした。

でも、努力する者には決まって女神が微笑むものです。

ナップ院長の懸命な推薦のおかげで、特例として正教員の受験が叶ったのです。
夢にまで見た、アカデミックな肩書きを得る絶好のチャンス。

しかし、何たる不運!

あろうことか、受験の日程連絡が遅れて届いたため、試験に遅刻してしまいます。

当然不合格となりますが、ここでもまた運命の不思議な糸に導かれます。

メンデルの才能に気づいた試験委員長が、名門ウィーン大学の博士過程に推薦してくれたのです。

あこがれのウィーン大学で、最先端の科学を思う存分学ぶ喜び。

数学と物理を教えてくれたのは、あの「ドップラー効果」で有名なヨハン・クリスチアン・ドップラーでした。

また、原子説を学んだことは、重大なインスピレーションをもたらします。

もしかしたら、物質の原子に相当する基本粒子のようなものが、遺伝にも関係しているのではないだろうか?

2年が過ぎ、その仮説を胸に秘めて修道院に戻ったメンデルは、
ブドウよりも育苗期間の短いエンドウマメの実験に取り掛かります。

その一方で、高等学校で物理と自然史学を教えていたのですが、身分は相変わらず代用教員のままでした。

しかし、ここでも再度チャンスが巡ってきます。
改めて正教員の資格試験を受けるチャンスを得たのです。

今度こそ失敗は許されません。

遅刻もせず、無事ウィーン大学で受験を済ませることができました。

しかしこの時、決定的な出来事が起きてしまいます。

口述試験の試験官は生物学の教授でした。

彼は、植物の「胚」について質問します。

今でこそ、おしべとめしべの話は小学生でも知っていますが、当時は違っていました。

なんと「植物の胚は、花粉管からできる」と考えられていたのです。
その通説に沿って答えれば、間違いなく正教員の資格を手に入れられるはずでした。

おそらくメンデルの心にも、一瞬の逡巡はあったことでしょう。

しかし、いくら目的を達成するためとは言え、真実でないことを認めることは彼の信念が許しませんでした。
試験官に真っ向から議論を挑んだ受験生に、合格通知が届くはずがありません。

この、アカデミックな肩書きがないという事実こそ、彼の研究結果が正当に評価されなかった最大の原因です。

1865年にブルノ自然科学学会で遺伝の研究結果を発表しますが、完全に無視されます。

遺伝子という仮想粒子の振る舞いを完璧に解き明かしたのですが、
古い博物学に慣れ親しんだ学者連中にとっては、統計や数学を駆使した発表は理解の範囲を超えていました。
有名な生物学者にも論文を送ったり、ブリュン自然科学会誌に論文を投稿しましたが、まったくの無駄骨でした。

もし、メンデルが一介の修道院の司祭などではなく、それなりのアカデミックな肩書きを持つ人物だったとしたら、
権威ある人々の反応も自ずと違ったものになっていたことでしょう。

「時代よりも先を走っていた」と形容するとかっこよく聞こえますが、それは間違いです。

アカデミックな肩書きがないことを理由に、真実を闇に葬り去った人たちがいたのです。

やがてナップ院長の後任として修道院長に選出されると、職務に忙殺されて研究どころではなくなります。

それでも暇を見つけては、ミツバチの飼育や気象観測の研究に熱中したそうです。

61歳で亡くなったときには、宗派を超えて大勢の人が駆けつけました。

その葬列が2キロに及んだと言う事実が、何よりも彼の人柄を雄弁に物語っているではありませんか。

メンデルは信念の人でした。

夢にまで見た、憧れの肩書きが目の前にぶら下がっていたにも関わらず、
それを手に入れるために自分の信念を曲げるようなことは決してしませんでした。

それに引き替え、自分のサラリーマン人生はどうだったのかと振り返ると恥ずかしくなります。

メンデルの遺伝研究が、ユーゴー・ド・フリースら3人の科学者によって再発見されたのは彼の死から16年後。

ブルノでの学術発表から数えると、なんと35年もの月日が流れていました。

しかし、肩書きがどうであろうと、真実にはいつか必ず光が当たります。

いつか必ず評価される時がきます。

目の前にぶら下がっている肩書きよりも、自分の信念の方が重い・・・。

たとえ、メンデルのように歴史に名を残すことはできなくても、そんな生き方を貫きたいものですね。

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