株式会社ファイブスターズ アカデミー
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中学校の理科の授業で、エンドウマメを掛け合わせる実験から遺伝の法則を発見したのは、
メンデルという人物だと教わりました。
科学史に残る大発見をしたメンデルですが、驚くべきことに彼は学者ではありませんでした。
一体なぜなのでしょう。
「生物学」は、19世紀になってようやく産声を上げた比較的新しい学問です。
この時代、仮説を立てて実験したり、その結果を統計的に処理してモデル化したりするのは、
まだ物理学や化学の分野に限定された手法でした。
グレゴール・ヨハン・メンデルはオーストリア帝国の片田舎の、比較的裕福な農家に生まれます。
ところが、父親はこの賢い息子に賭けたのでしょう、なんと農園を売り払ってお金を工面します。
しかし、それが限界でした。
普通は、さらに学んで学位や教員を受験する資格を取得するのですが、
これ以上親に金銭的負担をかける訳にはいかなかったのです。
この2年で卒業したという事実、すなわち学位もなく、正教員の受験資格も取得できなかったという事実が、
その後のメンデルの人生にとって重要な意味を持つことになります。
当時、学問をする場所は学校以外にもありました。
彼が所属したのは聖トマス・アウグスチノ修道院でしたが、
そこでその後の人生に大きな影響を与えるナップ院長と出会います。
愚直で真面目な性格は、このような地道な実験にはうってつけでした。
ついに心を病んでしまったメンデルに、ナップ院長はギナジウムの代用教員になることを命じます。
しかし、かつて大学を2年で卒業したため、学位も正教員の受験資格もなかった彼は、
いつまで経っても代用教員の身に甘んじるしかありませんでした。
でも、努力する者には決まって女神が微笑むものです。
しかし、何たる不運!
当然不合格となりますが、ここでもまた運命の不思議な糸に導かれます。
あこがれのウィーン大学で、最先端の科学を思う存分学ぶ喜び。
また、原子説を学んだことは、重大なインスピレーションをもたらします。
2年が過ぎ、その仮説を胸に秘めて修道院に戻ったメンデルは、
ブドウよりも育苗期間の短いエンドウマメの実験に取り掛かります。
その一方で、高等学校で物理と自然史学を教えていたのですが、身分は相変わらず代用教員のままでした。
今度こそ失敗は許されません。
しかしこの時、決定的な出来事が起きてしまいます。
口述試験の試験官は生物学の教授でした。
今でこそ、おしべとめしべの話は小学生でも知っていますが、当時は違っていました。
おそらくメンデルの心にも、一瞬の逡巡はあったことでしょう。
この、アカデミックな肩書きがないという事実こそ、彼の研究結果が正当に評価されなかった最大の原因です。
遺伝子という仮想粒子の振る舞いを完璧に解き明かしたのですが、
古い博物学に慣れ親しんだ学者連中にとっては、統計や数学を駆使した発表は理解の範囲を超えていました。
有名な生物学者にも論文を送ったり、ブリュン自然科学会誌に論文を投稿しましたが、まったくの無駄骨でした。
もし、メンデルが一介の修道院の司祭などではなく、それなりのアカデミックな肩書きを持つ人物だったとしたら、
権威ある人々の反応も自ずと違ったものになっていたことでしょう。
「時代よりも先を走っていた」と形容するとかっこよく聞こえますが、それは間違いです。
やがてナップ院長の後任として修道院長に選出されると、職務に忙殺されて研究どころではなくなります。
61歳で亡くなったときには、宗派を超えて大勢の人が駆けつけました。
メンデルは信念の人でした。
それに引き替え、自分のサラリーマン人生はどうだったのかと振り返ると恥ずかしくなります。
メンデルの遺伝研究が、ユーゴー・ド・フリースら3人の科学者によって再発見されたのは彼の死から16年後。
しかし、肩書きがどうであろうと、真実にはいつか必ず光が当たります。
目の前にぶら下がっている肩書きよりも、自分の信念の方が重い・・・。
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