株式会社ファイブスターズ アカデミー
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その男は、ジャズクラブのオーナーとギャラのことで揉めてはドアノブを引きちぎったり、
ライフルをぶっ放したりと大暴れ。
デューク・エリントンの楽団にいたときは、
ナイフを持ったバンドのメンバーに、ステージ上で追いかけ回されたこともあります。
一度はベースを抱えたまま逃げ出しますが、防火用の斧を持って舞い戻ると、
そのトロンボーン奏者の椅子を真っ二つに。
気に入らない演奏をしたメンバーを殴りつけることなど日常茶飯事でした。
怒れるベーシスト、チャールズ・ミンガスを形容するときよく使われる言葉が、“武闘派”“反骨”などです。
アルト・サックス奏者のジャッキー・マクリーンの証言を聞いてみましょう。
「ものすごい怖かったな。
当時の俺はチャーリー・パーカーに心酔していたから、どうしてもパーカー風のフレーズが出てしまう。
また、こんな言葉も投げかけられました。
「コード進行など考えるな。
キーも忘れろ。
どんな音を出しても間違っていないんだ」
やがてマクリーンは、子どもの頃ノースカロライナの祖母の家に行ったとき、たまたま耳にしたゴスペル・ミュージックを思い出し、独自のスタイルを歩み始めるのです。
ピアノのマル・ウォルドロンも、似たようなことを言っています。
「ミンガスは俺に自分自身を見つけさせてくれた。
自分のスタイルで演奏するために、それは大切なことだった。
ただマルがマクリーンと違うのは、ミンガスと親戚関係にあったおかげで鉄拳制裁を免れたことです。
「俺のママがミンガスに『マルを殴ると承知しないよ!』ってすごんだもんだから、
さすがの彼も俺には手出しできなかったってわけさ」
この二人がミンガスの元で自分のスタイルを見つけ出し、
ミンガスは自らのグループを“ワークショップ”と呼んでいました。
幼い頃に患ったポリオが原因で、右手の薬指と小指が全く機能しないというという、
ピアニストとしては致命的なハンデを負ったホレス・パーランも、このワークショップで独自の奏法を磨きました。
もう少し“被害者の会”の話を続けましょう。
トロンボーンのジミー・ネッパーの場合は、もはや結構な事件です。
管楽器奏者にとって前歯が折れるというのは深刻な事態ですが、
より高いレベルを追求する親分にとってそんな事は関係のない話でした。
テナー・サックスを吹いていたダニー・リッチモンドの悲劇は、ある意味面白話とも言えます。
「ところでテナー・サックス奏者はいりませんか?僕のような…」
なんと親分の一言で、演奏する楽器がまるっきり変わってしまったのです。
ところがこのリッチモンドも、そして前歯を治したネッパーも、
ミンガスが58歳で亡くなるまでその後何度も共演しているのをみると、
なんとなく“任侠”の世界と同じ匂いを感じてしまうのは私だけでしょうか。
音楽に妥協を許さない厳しい姿勢は、大物を相手にしても貫かれます。
盟友マックス・ローチと共に、尊敬するデューク・エリントンとセッションしたときには、
いきなりフリーっぽい演奏を始めて、ローチと二人でケンカを売ったのです。
しかも、直前までローチと殴り合いのリアルなケンカをしていたにもかかわらずです。
しかし、この緊張感溢れるアルバム『マネー・ジャングル』で世間を驚かせたのはエリントンの方でした。
なんと売られたケンカを完璧に受けて立ち、二人をねじ伏せんばかりの迫力で応じたのですから。
ゴキゲンなビッグバンドジャズだけでなく、アバンギャルドもOKという音楽性の幅広さ。
そして、ミンガスとローチの二人をなだめて、スタジオに連れ戻すという人間性の奥深さ。
改めてエリントンがいかに偉大かを思い知らされる出来事でした。
妥協を許さない姿勢はコンサートでも変わりません。
1953年5月15日、大入り満員になるはずだったトロントのマッセイ・ホールには、予想に反して閑古鳥が鳴いていました。
ビ・バップの巨人を集めると銘打って招聘されたメンバーは、チャーリー・パーカー(アルト・サックス)、
ディジー・ガレスピー(トランペット)、バド・パウエル(ピアノ)、マックス・ローチ(ドラムス)、
そしてベースは我らが親分チャールズ・ミンガス。
ジャズファンなら、名前を聞いただけでワクワクする顔ぶれです。
他に招聘を予定されていたトロンボーンのJ.J.ジョンソンは消息不明。
この頃、酔っ払ってステージに上がることの多かった麻薬漬けのチャーリー・パーカーは、サックスを質屋に入れたためか手ぶらでトロントにやってきます。
そのため、この日手にしていたのは、地元の楽器店から借りたプラスチック製のアルト・サックスでした。
バド・パウエルは精神病院を退院後初めてのコンサートだっため、看護人の付き添いでステージに上がりました。
要するに、なんとも悲惨な状況だったわけです。
しかしこの日、2400名収容のホールにわずか700名しか客が入らなかった理由は他にありました。
そんなことで?と思わないで下さい。
発売されたレコードから聞こえてくる熱狂的な拍手は、実は編集によって後からかぶせられたものです。
ベースの演奏です。
なんとミンガスは、ガレスピーのあまりのおどけぶりに腹を立て、途中でステージを降りて帰ってしまったのです。
ミンガスが怒るのは、理想と違うと感じた時です。
ニューポート・ジャズ・フェスティバルのプロデューサー、ジョージ・ウェインと大喧嘩をしたのは、
ウェインがギャラを搾取すること甚だしかったからです。
彼の“銭ゲバ”ぶりを物語るエピソードがあります。
この時代にはよくある話でした。
多くのミュージシャンが仕方ないと諦める中、ミンガスはその常識に真っ向から反発しました。
1960年、ついにニューポート・ジャズ・フェスティバルの会場の目と鼻の先で、
「反ニューポート・ジャズ・フェス」を開いたのです。
しかし、意外にも彼の内面は実にナイーブなものでした。
「つまり俺は三人なんだ。
一番目の奴はいつも中心にいる。
頓着せず、動じず、見まもり。
あとの二人に視たことを打ち明けられるまで待っている」
『敗け犬の下で』というタイトルの、チャールズ・ミンガスの長い長い自伝の書き出しです。
私が意外に思うのは、三番目のミンガスです。
それは、「愛し過ぎてしまうやさしい人間で、自分の存在の内奥の聖域にまで他人を入れてしまったり、
“武闘派”と言われたミンガスの心の中で、三人のミンガスが激しくせめぎ合っていたとは…。
殴られても蹴られても子分たちがミンガスに惹かれ、そして慕い続けた理由は、
どうやら三番目の男にありそうです。
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