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5☆s 講師ブログ

譜面の読めないギタリスト

ジャズピアニストの中には、気分が乗ってくるとウンウン唸り出す人が意外と多いもの。
若い頃のキース・ジャレットなどもそうですが、バド・パウエルなどは
ともすればピアノより唸り声のほうが大きくて、はっきり言って迷惑なときもしばしば。

ただし、エロール・ガーナーの場合はちょっと事情が異なります。
なんと、譜面が読めないのです。
唸っているのはメロディで、それを思い出しながらピアノを弾いているのです。

譜面が読めないミュージシャンなんているのかと思ったら、もう一人いました。
ただしこちらは、押しも押されもしないジャズの巨人、ギタリストのウェス・モンゴメリーです。

幼い頃両親が離婚したため、ウェスは兄のモンクとともに父親と一緒にオハイオ州に移り住みました。
その兄は14歳で学校を辞め、生活のためモノ売りをして働いていましたが、
ウェスがギターに興味を持って入ることを知り、大枚をはたいて町の質屋で4弦ギターを手に入れて彼に与えます。
これがミュージシャン人生のきっかけになりました。

17歳の時にインディアナポリスへ戻り、兄弟で演奏の仕事をすることもありましたが、
やがて結婚し子供も産まれたため、昼間は演奏以外の仕事もせざるを得なくなりました。

後に、当時人気絶頂のライオネル・ハンプトンのバンドに大抜擢されますが、
その2年後にはあっさり辞めて、音楽と関係のない仕事に就いてしまいます。
理由は、ツアーのため長期にわたり家族と離れて暮らすのが嫌だったからということで、
彼にとって音楽はその程度の位置づけでしかなかったようです。

やがて、本業だけでは生活費が賄えないため徐々に夜のクラブで演奏するようになると、
瞬く間に評判が評判を呼びます。

1959年9月7日、その噂を聞きつけてキャノンボール・アダレイと二人の盲目のピアニスト、
ジョージ・シアリングとレニー・トリスターノが連れだってそのクラブ「ミサイル・ルーム」を訪れた時から、
運命の歯車は音を立てて回り始めます。

その様子を目撃したダンカン・シュイエットの言葉を借りると、
奥まった席に陣取っていたキャノンボールは、最初の曲が半分もいかないうちにウェスの正面に席を替えます。
それから椅子に寄りかかり身を沈め、明らかに打ちのめされたように天井を見つめていたそうです。

この頃のウェスは実に多忙でした。
朝7時から午後3時までは、バッテリーや大型ラジオの溶接をします。
そして夜7時から朝の2時までバーで演奏すると、
大急ぎで時間外営業をする「ミサイル・ルーム」に行って2時半から5時まで出演していたのです。

この時ウェスは6人の子供の父親でした。
2つ以上の仕事をこなすようになってからすでに16年。

しかし、ようやく音楽だけで生活できるチャンスが訪れました。
キャノンボールがニューヨークに帰るや否や、
“インディアナポリスのすごいギタリスト”をリバーサイド・レコードに紹介したからです。

翌年の60年、あの名盤『インクレディブル・ジャズ・ギター』が脚光を浴びると、
その年のビルボード誌の「本年度の最も期待されるジャズミュージシャン」に選ばれ、
61年と62年にはダウンビート誌のポールウィナー(人気NO.1)の栄誉に浴します。

一気にジャズシーンの階段を登りつめたウェスに、
批評家達はこれ以上ないほどの熱狂的な讃辞を贈りました。

特に彼らが絶賛したのが「オクターブ奏法」です。
貧しいが故に独学で習得したギターテクニックのひとつで、
例えば1弦と3弦の1オクターブ違う音を、それぞれ人差し指と小指で押さえます。
そして2弦は薬指を軽く触れることで音を消し、右手の親指のアップダウンで1弦と3弦を同時に弾くのです。

そうです!
なんと彼はピックを使わないのです!
だからこそ、あの柔らかくて温もりを感じさせる音色が出るのです。

種明かしをすればごく簡単なテクニックだし、最初に考えついたのもウェスではありません。
しかし、数コーラスにわたりオクターブ奏法を行うという驚異の演奏スタイルは、
多くのジャズファンを虜にするのに十分でした。

そんな人気絶頂のさなかでも、ウェスは兄弟達と結成したモンゴメリー・ブラザーズの演奏を続けていました。
彼は何よりも家族を大切にする男だったのです。

ところが、その後ウェスの音楽は急展開を見せます。
今で言うイージー・リスニングと称される路線に走るのです。

『ゴーイン・アウト・オブ・マイ・ヘッド』でグラミー賞ベスト・インストゥルメンタル・ジャズ部門賞、
『ア・デイ・イン・ザ・ライフ』でゴールドディスクを獲得。

『カリフォルニア・ドリーミン』の大ヒットもあり、収入が急激な右肩上がりになるのとは裏腹に、
ジャズ評論家の評価は地に落ちます。
いつの時代も、批評家にとってジャズミュージシャンの商業的な成功ほど妬ましいものはありません。

ローランド・アトキンスの「儲かるのだろうが面白くもない一連のLP」という酷評などは、
ウェスの心をどんなにか傷つけたことでしょう。

ところで、楽譜の読めないギタリストが、一体どうやって数々の名演奏を残したのでしょうか。
特にジャズの場合は、各ミュージシャンが顔を合わせて、
2~3回リハーサルをしたらすぐに本番というケースが多いので、楽譜が読めないのは致命的です。

ウェスは、事前にその曲の音源を送ってもらい、セッションの日まで必死に練習していたそうです。
楽譜が読めないという弱点を、誰にも負けない努力でカバーしていたわけです。
いや、“努力”というよりは、むしろ“楽しんでいた”のかもしれません。

「とにかく音楽を演奏したかったから、指導者が現れる前にプレイを始めたんだし、
使いやすいピックを見つける前に、
あるいは、ピックを持たずにプレイするのが間違っていると考える前にプレイを始めた。
そんなことより、ただただ自分の内なる音楽を音にして出したかったんだ」

ウェスの演奏をそう表現した、同じくギタリストのバーニー・ケッセルはその人柄についても言及します。
「控え過ぎず、出過ぎず、利己的過ぎず、ただただひたすら温かかった」
彼を知る人がその人柄を語るとき、必ず使う言葉がこの“温かい”です。

商業的に大成功を収め、生まれて初めて経験する金銭的に何ひとつ不自由のない生活。
その最中に、46年間も無理を重ねた彼の心臓が遂に悲鳴を上げます。

何よりも家族を大切にしたウェス。
地元のダンスパーティーで知り合い、18歳で結婚した最愛の妻セレーヌの腕の中で静かに息を引き取った時、
きっと穏やかな微笑みを浮かべていたのだろうと、私は固く信じています。

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