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5☆s 講師ブログ

牟田口中将

一見平和に見える日本ですが、ビジネスの世界では日々激しい戦闘が繰り広げられています。
戦争のエッセンスは、ビジネスの世界に引き継がれ、今も脈々と息づいているのです。
その証拠に、”拠点””戦略””戦術”など、戦争用語のなんと多いことか。

太平洋戦争の、とりわけ指揮官に関する本を読んでいると、
現在のビジネスシーンに共通するような実例がゴロゴロしていて、
そのあまりの相似性に改めて驚かされます。

「インパール作戦」と言えば、多大な戦死者を出した悪名高き作戦です。
その指揮官だったのが牟田口廉也です。

戦況が、誰の目にも圧倒的に不利なことが明白になった昭和19年3月。
参謀本部のほぼ全員が反対していた、インパール作戦の決行が決まります。
一発形勢逆転を狙っての、まったく根拠のない賭けでした。

インドのインパールにはイギリス軍の基地があり、前線への補給に関する重要な役割を果たしていました。
この基地を、ビルマ(現在のミャンマー)側から3つのルートで踏破して、奇襲攻撃をかけようという作戦です。

その道のりは、はるか100キロ。
途中には、3000メートル級のアラカン山脈が横たわり、川幅300m・水深3mという
チンドウィン川を渡らなければなりません。

もし、うまく踏破できたとしても、問題はその後の補給です。
後方からの補給がないと前線は孤立してしまい、短期決戦しか持ちこたえられません。
少しでも抵抗されて持久戦になったが最後、空腹との戦いが待ち受けているのです。
本部の全員が反対した理由がよくわかります。

このインパール作戦には3つの師団が動員されましたが、当然のことながら全師団長がこぞって作戦に反対しました。
しかし、そこはやはり軍人です。
一度下された命令には、従うしかありません。

各師団は大変な困難を乗り越えて、期日までにインパールにたどり着きます。
ところが、案の定イギリス軍の反撃にあい、数週間もの持久戦に持ち込まれます。
そもそも補給基地なのですから、敵は持久戦に持ち込むだけの弾薬も食料もありあまるほど持っているのです。

最初に離脱したのは、第31師団の佐藤幸徳師団長でした。
悲惨な戦況を見て、とても勝ち目はないと判断し、これ以上の犠牲者を出さないためにと、
牟田口中将の指示を待たずに無断で撤退を始めました。

この時、牟田口中将はどこで指揮を執っていたかというと、最前線から400キロも離れたメイミョウというところです。
ここは、別名「ビルマの軽井沢」と言われ、実に快適な避暑地です。

どうです?
指揮官が現場から遠く離れたところで指揮を執るあたりは、ビジネスに似ていると思いませんか?

全く勝ち目のない無謀な作戦だったので、結局3つの師団すべてが戦線から離脱します。
それを見た牟田口は、敵前逃亡だと師団長たちを罵り怒り狂います。

遅すぎる撤退命令が出されたのは7月に入ってからのことですが、撤退する道のりもまた苦難の連続でした。
この作戦の戦死者は5万人以上と言われていますが、正確な数はいまだにわかっていません。
ただ、インパールからビルマまでのルートは、後に「白骨街道」と言われたほどですので
夥しい数の死体が途切れることなく連なっていたことだけは確かです。

牟田口は、作戦失敗の責任を感じて、一応、部下の参謀に「自決したい」と相談します。
部下は冷たく言い放ちました。
「切腹を相談されたら、立場上止めざるを得ませんので、黙って腹を切ってください。
この失敗はそれだけの価値があります」

てっきり引き止められるものと思っていた彼は悄然としますが、結局自決することもなく天寿を全うしました。
それどころか、終戦後は一転して自分の非を否定して、
あろうことか失敗の原因は「部下の無能さ」にあったと、ありとあらゆる機会を通じて声高に主張し始めたのです。
なんと、自身の葬式の時には、遺言通りその主張を明記したパンフレットが参列者に配られたそうです。

葬式のパンフはやりすぎですが、どうですか?
現在のビジネスでも、よくある話だと思いませんか?
ただ、私が最も相似性を感じるのは次の点です。

空前絶後の大失敗にもかかわらず、牟田口が上層部から責任を問われることは全くありませんでした。
なぜでしょうか?

それは彼が、時の首相、東条英機と大変親しい間柄だったからです。
要するに、「トップと親しければお咎めはない」ということです。

一見、不可能と思われる難題にチャレンジすることを否定しているわけではありません。
まさに、それこそが人類の進歩を支えてきたことは間違いありません。
しかし、そのチャレンジが失敗したときの責任はどうなっているのでしょう?

失敗した時の責任を云々していたら、チャレンジなどできないというのも正論でしょう。
しかし、その失敗で傷つくのは、決まって最前線でがんばっている無名の人たちです。
トップが名前さえ知らないこの人たちに対して、十分な配慮はなされていたのでしょうか。

終戦から70年近く経つのに、不思議なことにこの構図はほとんど変わっていません。
そう言えば、あの戦争についても、一体誰が責任を取ったのでしょうか?

A級戦犯?
違います!

1952年、サンフランシスコ講和条約の発効を受け、政府が国内法上の解釈の変更を行ったため
戦犯拘禁中の死者はすべて「公務死」とされました。
つまり、戦争犯罪者の名誉は、完全に回復されたことになります。
いや、解釈のしようによっては、戦争犯罪者そのものが存在しなかったとも言えます。

事実、後に首相となる民主党の野田佳彦氏は、小泉政権下の国会でこんな質問をしています。
「戦犯など存在しないのだから、靖国参拝に何の問題があるのか?」
さらに驚くべきは、それに対する政府の回答です。
「東京裁判での判決は、国内法に基づいて言い渡された刑ではない」
なんと、戦争責任などというものは、いつの間にか闇に葬られていたのです。

広島の平和記念公園にある原爆死没者慰霊碑には、こう記されています。
「安らかに眠ってください。過ちは繰り返しませぬから」

この文章には重大な問題があります。
「主語」がないのです。
一体誰が過ったというのでしょうか。

指揮官が責任を取ることなく、そこにあるのは「連帯責任」だけ。
これが、「和を以って貴しとする」国の本質だとは、私は決して思いたくありません。

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