株式会社ファイブスターズ アカデミー
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かつて、私にとってのライトバースの旗手と言えば、ラングストン・ヒューズでした。
どっかへ 走っていく 汽車の
75セント ぶんの 切符を くだせい
ね どっかへ 走っていく 汽車の
75セント ぶんの 切符を くだせい ってんだ
どこへいくか なんて 知っちゃあ いねえ
ただもう こっちから はなれてくんだ。
(『75セントのブルース』より/木島始訳)
ライトバースとは、「軽み」という意味です。
日本では田村隆一が代表格だと思っていましたが、
高田渡の『生活の柄』を聴いて、山之口貘の存在を知りました。
彼が詩壇で無名の存在だった理由は、そのあまりに長い推敲期間にあります。
一編の詩を創作するのに何年も、時には10年以上かけるので、
40年の詩人人生で上梓した詩集はたったの3冊しかありません。
言葉というのは、それほどまでに厳格に向き合わねばならないものなのです。
余談ですが、ここにアップしている駄文も、一応最低でも30回以上の推敲を重ねてはいます、これでも。
世の中には、毎日欠かさずブログをアップしたり、メルマガを配信している人がいます。
そして、そのアクセス数や配信数がかなりの数に上る人も決して少なくあり ません。
“すごい”ことだとは思います。
ただし、この場合の“すごい”の内訳は、9割方“呆れる”という意味です。
言葉というものは、口から発せられた瞬間から、発した人間を裏切り始めます。
まさに、詩人の苦悩はそこにあるのです。
自ら発した言葉を、無条件で信じている人の感覚を私は理解できません。
毎日ブログをアップするのもいいですが、後年その言葉を見たときに、
時間の経過に耐えられるだけのクオリティは残っているのでしょうか。
また、読む側にとっても、一年間そのブログを読み続けたとして、長く記憶に残るものが一体いくつあるでしょう。
ブログは、所詮読み捨てられるだけの存在ですが、
思いつくまま書くことだけに、膨大なエネルギーを費やすのであれば、
そのエネルギーの何割かを推敲に割いて、少しでも相手の心に残るように、
読み物としてのクオリティを上げることを目指すべきではないでしょか。
少なくとも、言葉を介して人に何かを伝えるということは、それほどまでに厳格な作業のはずです。
人の心を打つものは、すべてシンプルです。
そのために、究極まで言葉の贅肉を削ぎ落としたものが、ライトバースなのです。
しかし、と私は思うのです。
山之口貘がライトバースを試みたのは、詩だけではなかったのではないかと。
『ねずみ』という作品には、往来の真ん中にあった一匹のねずみの死骸が、
様々な車輪に轢かれて、ぺしゃんこになっていく様子が描かれています。
そしてそれは、やがて「一匹」でも「ねずみ」でもなくなり、
しまいにはただ単に「平たい物が 陽にたたかれて反り返っていた」というのです。
「ねずみ」と、反り返った「平たい物」を区別するものは一体何でしょう。
生きているか、死んでいるかの違いでしょうか。
死んだら、価値のない「平たい物」になってしまうのでしょうか。
では、生きているということは、価値という重みを伴うことなのでしょうか。
季節々々が素通りする
来るかとおもつて見てゐると
くるかのやうにみせかけながら
僕がゐるかはりにといふやうに
街角には誰もゐない
徒労にまみれて坐つてゐると
これでも生きてゐるのかとおもふんだが
季節々々が素通りする
まるで生き過ぎるんだといふかのやうに
いつみてもここにゐるのは僕なのか
着ている現実
見返れば
僕はあの頃からの浮浪人
この『石』という作品で語られているのは、道端の石ころのような存在の自分自身です。
この石ころは、「平たい物」とどこが違うのでしょうか。
もしかしたら彼は、人間の存在までをも、ライトバースにしようとしたのではないでしょうか。
59才で胃潰瘍と診断された時、入院費も手術代もなかった彼は、友人の朝日新聞社の社員に相談します。
その友人が、佐藤春男や金子光晴、草野心平をはじめとする多くの仲間から、カンパを集めてくれました。
しかし、残念ながら、本当の病名は胃ガンでした。
4カ月の闘病生活の後、”生き過ぎた”その詩人は、手術の甲斐もなく「石」になってしまいます。
彼のライトバースは、この瞬間に完結した訳ですが、
読む者の心の中では、逆に重みが増していくように感じられるのは何故でしょう。
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